人は簡単に幸せになれない
「ホモ・デウス」上巻47pにエピクロス(BC341~BC270)の思想を紹介しつつ、ユヴァル・ノア・ハラリがまとめたエピクロス思想の核心の部分を紹介している。少し長くなるが「エピクロスは幸福を至高の善と定義したとき、幸福になるには骨が折れると弟子たちに警告した。物質的な成果だけでは、私たちの満足は長続きしない。それどころか、お金や名声や快楽をやみくもに追い求めても、みじめになるだけだ。エピクロスは、たとえば飲食はほどほどにして性欲を抑えることを推奨している、長い目で見れば、深い友情のほうが熱狂的な乱痴気騒ぎよりも、大きな満足を与えてくれる。。。」幸福は定義されることではなくて私なら幸福は短時間でも感じるものだと思う。たとえ瞬間で消えても幸福感は残る。試験の合格の瞬間、仕事で初仕事を自力で獲得してきたとき、初めてのキス、プロポーズしてうなずかれたとき、孫がランドセルをしょったとき、死んだと思ったバラの根が生きていたことを発見したとき、住宅街で交わされる「おはようございます」の声を聴いても幸せを感じるものだ。たぶんこれは世界中で共通する幸福感だろうと思う。そうであれば、「私たちは過去数十年間に前例のない成果をあげてきたにもかかわらず、現代の世界の人々が昔の先祖たちよりもはるかに満足しているかどうかは、およそ明白とは言えない」。土門拳の筑豊の子供たちを写したモノクロ写真や自分が15歳で行った修学旅行の同級生たちの写真を見てみると目がキラキラしている。そういえば、当時、旅は自宅にマイカーもなかったし、めったにできるイベントではなかった。現代は物と電波に囲まれて窒息してしまったのか?紀元前4世紀から3世紀に生きたエピクロスが、幸福になるには骨が折れるという気づきは今も失われていない気がする。果たしてどうすれば幸福感に満たされた毎日が送れるのか。永遠のテーマのような気もする。疫病や災害や経済危機で一瞬で別な世界へ運ばれてしまうから。さっぽろゆきまつり写真あれこれ。今井昇撮影




坊主の孫
幸福の定義や尺度は、それぞれが置かれた立場や、環境や、考え方でそれぞれ違うので一概には言い切れないでしょうね。小さな幸せと大きな幸福感があり、それには大きな格差があって皆んな共通とは行きませんね。我々は殆どが前者しか知らず、後者の幸福感などは夢のまた夢と言うか、初めから問題外ですから、せいぜい日々の暮らしに中での小さな幸せを感じられる出来事が有ればラッキーと思えるくらいですね。でも幸福ばかりではありませんね。人生には不幸も幸福以上に付きものですから幸福感を味わうには、先ず不幸の解決が先でしょうね。不幸は勝手に、これでもか?これでもか?と、どんどん向こうからやって来ます。それらにどう対応するかの方法論は、それぞれ個人に委ねられています。多くの幸福感を味わうには、先ず、それ以上の数の不幸と言う難題の解決から始めなければいけないのでしょうね。 ジッとしているばかりでは幸福も見つからないでしょうね。
seto
不幸は災害や事故や病気、失業、失恋もそうかもしれないし、受験不合格もそうかもしれません。目先の不幸の解決が先で、病気ならばいい医師を探し、事故なら保険会社と相談してみないとね。不幸の量を減らす工夫をしないとね。これは暴言ですが、何かの本に幸福の絶対量は人類で決まっているというのがあります。一人の人生を振り返ると幸福の量と不幸の量を足すとゼロになるとういう定式もあります。主観的な感情を数量化するので無理はあると思いますが、有名人の末路を見るとあながち間違ってはいないと思いますね。静かにしていても肉体の内側から病原菌がむしばんでくることもあるわけでね。活発に動いても病気と無縁の人がいます。とはいえ、不幸は病気に限らず、家族の人間関係や家庭内DVもあり、パワハラセクハラもありますね。不幸の種は尽きまじです。