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恵庭郊外 村本農園

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村本農園 ジャガイモ畑

昨年は近所の農家に草取り作業へ「大丈夫、やれます」と言い、作業をやり出すも2日間・8時間でダウン。2日目で、腰と膝が役に立たず、電話で白旗を上げた。体調が戻るのにほぼ1カ月かかる。白豆の草取りだった。直線100mを何度も往復するのだが、70歳に近い元農夫は無理せずマイペースで進むが、私は張り切り過ぎて初めは勢いがいいが、草の取り残しもあってペース乱れて、途中で草と豆の苗との区別がつかなくなり、意識朦朧。ダメだ。これでは近未来の食糧不足時代を乗り切る体力がない。

農作物を工場化してやらないと筆者は農業に参加できないぞと危機感を覚えた次第だ。雨が降ってきて、車の中でお茶が飲めて、奥さんが用意したお菓子を食べれる・・・嬉しかった。これでは農家ではない。休めて喜ぶ小学生やサラリーマンと一緒だ。

今年の肉体労働への挑戦は前にも書いたホテル各部屋の清掃やベッドのシーツはぎだ。272室で満室で満室の大きなホテルだ。土曜日に出たときは「軽い、軽い」と自信満々。それもそのはず、金曜宿泊客の部屋だから少なかった。ところが、日曜日に行くと前日より100室アップ。9階で仕事を終えると6階へ次は5階とめまぐるしい。はがすシーツの数も半端ではない。マットに食い込ませるシーツもベッドメイクする人で長さが違い、入れる力がエイット声を出す時もある。繰り返すと、持病の心臓が少しチクチクしてきたので「ヤバイ」と思い、2日後電話とメールで辞める旨伝えて、指導した人たちとホテルへ迷惑をかけてしまった。

やっぱり、長い間、口先商売でやってきたので寡黙で黙々と肉体労働に励む業種に向いてない自分に腹が立つ。ダメもとで自分で失敗しないと納得できない性(たち)なんだ。成功すればいいけれど2年連続落第だ。飛び込み営業時代の癖が、「とにかくやってみなければわからないじゃないか」という癖が治らない。職業病だ。私の病気で迷惑をかけた農家の方、ホテルの方へこの場を借りて深謝します。どちらも私のブログを読んでいるらしいので。

特に私たちの命を支える農業は産業の中で一番大切で、それも食料はせめて日本は80%は自給していかないといけない。(現在40%)。水資源、森林、土壌、農業がこれからもっとも大事な産業になるのは明白だ。先見性のある投資家は、森を買っている。アマゾンでもね。中国も北海道の水資源(森林)を買っている。種子を制する者は世界を制すると豪語する会社もアメリカにはあるが、北海道はまだまだ廃屋も多く、農家の人も「誰か農業をする人はいないだろうかね」と聞いてきた。(*種子メーカー最大手はモンサント社で元々化学メーカー、次はデュポン、そしてスイスのシンジェンダ。種と除草剤を同時発売して二重に儲ける構造だ。手ではなくてセスナから除草剤を撒いても耐えられる種子を売ると言うわけだ)

上下水道や電気が完備されているのにもったいない。どうか志ある若者、機会あれば、ふるさと納税で特産物を得るより、特産物を作る側に回らないだろうか?肉体労働の失格者が言うのも口幅ったいことであるが、全道各自治体で本州からの移住を歓迎している。農業学校へ入校する町もあるよ。

  1. 一言で農業と言ってもジャンルは色々ですね。最近の北海道では機械化が進み、ドローンなども使って除草や生育状況を調査したりと必ずや泥にまみれる事ばかりと限られなくなりました。農業もスマートに変化して居ますね。でも基本は全て土、土壌が資本ですから土壌改良や、有機栽培も流行して居ますが、肥料の使い方や種子の管理など頭脳的な農業にも変化してきています。我々が子供の頃、手伝った農業は、体験上継承する気にはなれませんでした。田植えで水田に入り手で苗を刺していると蛭に足をやられ気味が悪く二度と田植えはしないと。更には稲刈りの鋸状の刃の鎌で指を切ったり兎に角大変な手作業ばかりでした。今は余程小規模の場合を除けば、そんな部分は機械化されていて随分楽に成っている筈です。農業に従事する事は植物が根を張る様に、地に足を付けて取り組む事が基本でしょうね。我が家では長沼の農家さんと親しくさせていただき昨秋も枝豆採りなどにも行きました。お米もジャガイモも大根も白菜も農家さんから買っています。大卒の息子さんも今では農業を継いで活躍して居ますね。

    • 私の肉体労働はとにかく豆類の草取りでした。豆の苗と背丈が同じ草を取るのですから、初めは区別がついて草取りできましたが、時間とともに集中力切れて、豆を取ることになって、後ろからついてきた農家の人に注意されました。草取りは機械では無理ですね。除草剤を撒くしかありませんんが、そうすると弊害が色々出ます。長沼は豊かな街で移住者も増えています。レストランや喫茶店も多くなりました。農家の人と知り合いになるのは大事です。いろいろ価値観の違いを見せてくれます。地味にコツコツの世界です。

  2. 陶芸が本業だった父は、疎開先の村で農業と林業をはじめ、田畑を借りてお米も、畑では野菜を。お米は農協に検査合格米は納めました。野菜は殆ど自家用でした。その他に50俵規模の小さな炭焼き窯を自作して灌木の山の木だけを安価で買い取り、切り出して木炭を作って売りました。小学高学年から中学生になって私も手伝いました。焼く前の生木を窯に運ぶのは重くて大変でした。晩秋には干し柿の為の柿もぎとその加工は家族全員で夜なべして作業しました。どれも売り物ですから真剣です。が、子供の頃の私は農業や林業など田舎の暮らしが大っ嫌いでした。何故なら、厳しい父からノルマを課せられるからです。村でも珍しいサラリーマンの子供が竹馬の友でしたから彼の家庭が羨ましかったですね。親夫婦は日中は留守で、その友は家事など無く科学雑誌を定期購読していて電気や化学実験ばかりして遊んでいました。私を遊びに誘いに来ますが、厳しい父の目を盗んで抜け出すのは至難の業でした。ノルマは田んぼ一枚の刈り取った後の株を専用の鍬だけで掘り起こす作業などは夕方までに終えなければいけなかったにも関わらず、途中で田んぼの真ん中で寝転んで青空と雲を見て居る内に寝てしまい、暗くなってから恐る恐る帰宅したものです。或る時はシイタケの榾木に菌を植える作業のノルマでは榾木の多さに途中で嫌になりました。ただ農業で楽しかったのは、田植えの時の土手で食べたホウの木の葉っぱにくるんだ「ホウバ飯」と、稲刈り時期に稲を干すハサの最上段に出初式よろしく足を掛けて、遠い景色を楽しむ事や野菜をその場で採って食べた事。林業で楽しかったのは炭焼き小屋での質素な昼飯でした。ご飯は飯盒で炊き、オカズは硬い炭の皮を火にかけてその上にヌカ漬けのイワシを載せて直火で焼くのですが、あの味は忘れられません。今で言うキャンプそのものでしたね。作業はどれも大変ですぃたが、製品化されると嬉しいものです。しかし農業や林業にも付き物のノルマの重圧には幼かった私も閉口しました。ノルマはサラリーマンだけでは無いですね。

    • 農業や炭焼きにしてもノルマは収入の源になるもので真剣だったお父さんですね。それにしても昔の少年さんは、それに食らいついて働いていましたね。うらやましいサラリーマン、確かに気楽な稼業の面はあります。その子供たちものんびりしていたことは確かです。しかし、昼ご飯を美味しく食べた思い出や労働の後のうれしさや喜びは幼いときはありませんでした。それを知るのは17歳のときから始めた新聞配達100部でした。1年間休みゼロで皆勤賞で月1000円もらいました。1部1カ月配達して80円なので給与は9000円。小遣いはそれで充分でしたね。吹雪でも完璧に配達しましたから、あのころのほうが根性ありました。

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