「ソシャルメディアの何が気持ち悪いか」(朝日選書)の中にある香山リカさんの言葉だ。学生時代、教養部の文系学生への生物の授業は最大500人以上は入れる教室で、タバコOK、下駄ばきOK、私語多数の中で紫煙煙る中での授業であった。

全員に”優”を与える教授なので、私にとっては貴重な授業であった。先生もマイク片手にノートに書かれたことを喋るだけ。しかし、現代は先生の評価を学生に聞いたり、アンケートを取ってるんだね。それが先生の待遇や雇用をどうするかの資料に使われているとはたまげたもんだ。病院でも院長への直行便、回転寿司屋さんでも実名を書いて接客態度の良し悪しを聴いたり、消費者が王様以上になってる感が深い。

「先生は偉いんだ」という親の無条件の肯定感が、教育現場を覆っていた時代が長かった。教師に叩かれたら親は「お前が悪いから叩かれたんだ」と逆に子供を諭していた。そして、表題の言葉だ「授業評価は後ろの席ほど厳しい」。

フェイスツーフェイスでは、クレームはなかなか言えないが、アンケート(特に匿名ならなおさら)やSNSや電話ならガンガンクレームを書いたり、言える人が多い。営業マンの良し悪しは、評価はクレーム処理にあると言われていた。直ちに客のところへ行き、顔を見ながら話すのが穏やかな解決に向かうことが多い(多かった)。

しかし、電話ですべてを弁明したり、他の仕事をまず優先して時間があれば伺うと言ってみたり、相手の非を咎める話をしてトラブル倍増になったこともある。できるだけ近距離で大事なことは話さないとえらい目に遇う。後ろの席に座るのはもともと、授業には非消極的なのが多い、遅刻もしてくるし。

しかし、遠いがゆえに先生から見たら顔の識別ができにくい。生意気な学生や漫談タイプも多かった。お喋りや昼寝、タバコを吸うために後ろの席をあらかじめキープするタイプ。どういうわけかクレームや文句を言うのが上手であった。頭がきっといいのかもしれない。切り返しというか言い訳というか、そういう世故にたけた学生が40年後どうなったか。調べてみたい気もする。統計を私はまだ取っていないが、何らかの傾向がわかればブログで紹介するつもりだ。

60歳を過ぎると人生の後ろの席に座るわけで、若い働く主役たちにあんまり過酷なクレーム・増税はしてはいけないという教訓でもある。クレームを言うくらいなら黙って自分が正しいと思う行動をひとりでするようにしたいものだ。60代以上のクレーマーや突然のキレ言葉、暴力も増えている。ことは大学の教室の中だけではないのだ。

  1. 怒りっぽくキレ安くなったのは既に認知症の入口だと介護職経験者の妻が私に言う。お互いに声が小さい会話で聞き取りにくいと、ついハッキリ言いなさいとか耳が遠くなったねだとか身体機能の退化と言わんばかりの言動には幾ら大人しい私とは言えお互いにキズつき喧嘩の種にもなりますね。年齢のせいも有りますが、素直に聞き入れて改善すればお互い気分よく過ごせるのですが、それが中々出来ないのが高齢者同士ですから、その結果つい、会話が面倒になって、出来るだけ言葉さえも交わさなくなります。これでは益々認知症へまっしぐらですから、改善策は自分から進んで歩み寄る事でしょうね。お互いにマイナス評価や粗さがしばかりでは評価どころか自分自身もマイナス評価の材料を提供するばかりですね。他人の欠点は自分にも有りますから、むしろ他人の良いモノを吸収する技量が必要でしょうね。

    • 加齢とともに耳が遠くなります。妻の声が聞こえないときあります。声も大きくなったようです。カフェで同世代の友人とおしゃべりして、連続2回「うるさい」と抗議を受けました。香山リカさんの言葉は現代のSNSにおける口汚い言葉の多発が後ろ石から飛んでくるのではと想像しながらブログに書いてみました。字数制限もあって、長い文章ではなくて、断定的なウケのいい感情に訴える日本語を多用する習慣は困ったものです。いろいろな国の人々と会話するときに、外交力低下します。たえず外を見ながら生きていく時代なので寂しい限りです。たくさん本を読んで、ブロガーやインフルエンサーにはできるだけ影響を受けないよう生きたいものです。

  2. 後ろの席?と言えば中学時代は同じ美術部の親友といつも最後列の机に並んで座り、教科書を屏風のように立て教壇から見えないようにしたノートに鉛筆を立てて滑らせ戦闘機での攻撃遊びや絵を描いていました。しかし、同じ遊びをしていても相手は成績優秀ですから、彼の遊び相手をさせられていた事になりますね。彼は盛んに私を遊びに誘います。学校帰りにも遊びに誘われ、仲良しは良いのですが、彼の家は学校から徒歩圏。一方、私は自転車通学で20~30分以上先です。しかも明日は期末テストと言う日でも、いいから遊ぼうと誘われ、誘惑に弱い私はついつい遊んでしまいます。試験の結果は言うまでも無く彼が優秀な成績と評価される訳です。夏休みの課題で短歌を短冊に書いて提出も、家にロクな筆も無く竹を削って自作の竹ペンに墨汁をつけて書いた私の故郷の夜叉が池を謡った自作短歌とその荒っぽい筆跡?が評価され金賞のリボンが付けられていたのですが、何と?その作者名は親友の名前でした?要領の良い奴は評価も高いと言う事ですね。その原因は親友と私の下の名前が同じで、短冊にはひらがなで下の名前しか書きませんから教師の直観の評価が彼だと決めつけたのでしょうね。普段は大人しい私が、この時ばかりは教員室に怒鳴り込んだのは言うまでも有りません。

    • 思い込みは怖いですね。教師さん、そういう傾向多いです。下の名前が同じとはアンラッキーですね。私は背が低く、小学校1年から6年まで一番前でした。これはこれで目立ちます。前列左一番です。徒競走もすぐ終わります、親が来る前に終わってますから良かったです。中学3年間は全道一番で入った友人と通ってました。できる子は植物や野菜の成長を気にしてから登校です。お父さんが新幹線の技術者でした。クラスでもめ事があるとそれをうまくまとめる力はあって信頼感抜群でした。中学はいい奴に囲まれて生きてきました。7割は国鉄マンの子弟でした。サッポロビール、雪印、福山醸造、フルヤ食品、苗穂刑務所など職業で分類できるほどです。縦関係はなくフラットな中学でした。その結果、この中学から南高と北高を一番で入学する男女が出てきて、「どうしたんだ、あの中学、どんな教育方針でやっているのか」と見学者がたくさんきました。別にこれといったことは何もなく、たんたんと生きていただけなのにね。道新の夕刊に全道一番で入った友人が取材されてました。鼻高々でした。彼はたえず、一番後ろにいる人は大丈夫かと気配りしながら生きてましたね。

  3. 遅刻常習犯と言うか、ギリギリ駆け込む癖は小学校、中学校、高校もそうでした。小学校は家から5~6分の至近距離でしたが、豆腐屋のみっちゃんが、一つ先の村からやって来て我が家に立ち寄り迎えに来てくれます。彼女と一緒に始業の鐘が鳴ると同時に教室に入ります。中学では砂利道の下り坂を自転車を飛ばして20分ほどの学校へ駆け込みます。自転車置き場に着くと2階の教室の窓から皆に拍手で迎えられます。授業が始まる寸前に間に合うか?それとも遅刻か?と同級生の彼らは賭けていたのです。その癖は高校でも全く同じで同級生の間で賭けていたようです。窓から皆に拍手と指笛で迎えられてチョットした優越感さえ覚えたものです。漢文の授業などは退屈で居眠りして居るといきなり起こされて『次のページを読み上げて意味を答えなさい』と言われて適当に答えると『素晴らしい!寝ていても正解できるなんて?』と褒められる?始末です。漢文は大好きでした。大嫌いな科学の授業は友達に代返を頼んで、こっそり抜けてスキー場へ。学校にはスキーを置いていたんですね。計画的過ぎました。年老いた今になってやっと少しだけですが真面目になりました。

    • ほんわかした昭和の匂いがする、遅刻ですね。みんな楽しんでましたね。小学校も中学も。私はつまらない高校で途中で行くのが嫌になりました。高校でも出身中学の閥があって、某中学が全体を指揮していたように思いました。中学の同級生はおとなしいやつばかりだったから。ゆくゆく色々影響出ます。ひとりが好きでしたね。修学旅行も私一人だけ行きませんでした。函館旅行をしてきました。まだ奈良へ行ったことなく、金閣寺や銀閣寺を見たことありません。京都へ5回行ってますが。修学旅行のトラウマですかね。皆が行くところは行かない主義なのかも。

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