尊敬されることを気にかける(パンセより)
パスカルのパンセに「われわれが通り過ぎる町々。人はそこで尊敬されることなど気にかけない、しかし、そこにしばらく滞在するとなると、気にかける。それにはどのくらいの時が必要などだろう。われわれのむなしい、取るに足りない存続期間に釣り合ったひととき」(パンセ149、前田陽一訳 新潮文庫)次の150番が「虚栄はかくも深く人間の心に錨をおろしているので、兵士も、従卒も、料理人も,人足も、それぞれ自慢し、自分に感心してくれる人たちを得ようとする。そして哲学者でさえ、それを欲しがるのである」
虚栄がなくなると、現代文化と消費社会は総崩れになる。それ以前に人間が人間であり続けられるかどうか。見栄もそうだし、オシャレもそうだし、新商品を購買することもそうだ。テレビに出たり、新聞に解説を書いたり、ブログを書くのも、小さな子供も流行りのキャラクターグッズを自慢したりするから、自慢はSNSも自慢合戦に近い場合も多いから、この虚栄が文明の駆動力であるともいえる。身近は出世競争や受験競争だ。
しかしだ、自分に感心してくれる人たちってそんなに正直、いるとも思えない。へそ曲がりの私だから特にそうだ。「何をいつまでバタバタやってるの?」くらいの他人からの評価が一番狂わないのではないかと思う。他人を持ち上げては落とすのは世の習い。母の教えが「世の中、嫉妬の世界だから、他人が羨む物を持ってはいけない」と言う。物は使用できればそれでいいという思考にいつのまにか私も染まっていった。好奇心やわからないことを知りたい欲求も虚栄のなす技なのかどうか。物にお金も含まれるのはもちろんだ。なんでもほどほどだが、基準がわからない。
しかし、パスカルさんよ、現代は食べ物もなく、世界中で難民と餓死する子供がいて、虚栄以前に生きられない人々がたくさんいる。その一方、「気をまぎらわせる騒ぎを好む」人でもあるのだ。退屈という名の病に罹患してテレビに噛り付いてる。「不幸というものはただ一つのこと、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こる」(同著139)。しかし、部屋の中に静かに休んでいると明日のご飯が食べれない。きょうもエチオピアの内戦記事を読んだ。ユーチュブで村を焼かれて夫を目の前で殺された奥さんが泣きながら「もう人間は嫌だ」と取材記者に語っていた。われわれは何と答える?

