自分のことは棚に上げて饒舌に語りだす。
約35年間、営業をしていて感ずるのは「自分のことは棚に上げたとき、自分を含めて饒舌な人が多い」こと。たとえば、会議で自分の部の数字が悪くて、その追及が終わると、やれやれとばかりに他部の数字についてあれこれ原因追及を始めたり、キツイ質問を浴びせる人は多かった。「その悪い原因は?」「あの新人にもっと飛び込みさせないと」。自分が一度も飛び込みや、お手本営業をできない人に限って、なるほどもっともという話をして、上司をうなづかせる輩(女性を含めて)がワンサといた。営業の命は、数字といっても、辞めて行った同僚を送別した後、彼の持っていたスポンサー(数字)を誰に分配するが話題になる。このクライアントは担当者が癖のある人で飲酒の付き合いもあるから、下戸の彼には合わないとか、数字・売上の奪い合いが必ず始まる。これが時間とともに、職場環境を良くしたり、悪くしたりする。特に地場の中小の企業は、毎月毎月の数字会議で、悪ければ即倒れる、賞与はないぞといって社員を脅しながら経営をするから、自分が生き残るためには、汚い手を使っても数字の確保に執心する。
ただ、数字のいい営業マンにもやがて、たそがれが訪れる。取引先が別会社へ移行したり、倒産でかえって会社に迷惑をかけることになる。そのときは、「どうするのだ?この売り上げに代わるスポンサーを見つけらるのか?」と手厳しい罵倒に代わる。私が後輩に伝えてきたのは、「小さくてもいいからたくさんのスポンサーを持ちなさい。そうすると、落ち込みのクッションになるから」と。「興隆の原因と没落の原因は同じ」(塩野七生)。大きな売り上げほど怖いものはない。 いつも無くなったときの恐怖感にさいなまれ、売り上げがないとリストラ(配置換え)の恐怖に怯え、営業マンは心休まるときがない。それを見かねてせいぜい、「営業って、数字・数字で大変だね。体に気をつけて頑張ってね」と総務あたりから励まされるくらい。お世辞だね。
営業で失敗して、総務や管理に配置換えになったら、かえって営業マンに超手厳しい人間に変貌する場面も見た。特に、売り上げの多い営業マンのスポンサーが倒産でもしたら、同情よりも「倒産するくらいなら、初めから仕事なんてしない方がいい」と過去の数字のなかった自分をこの時とばかり、正当化する発言を平気でする。
あるとき、私は彼に「自分が営業マンのとき、ほかの営業マンにずいぶん助けられていたじゃない?」と言うと、「立場代われば、考え方が変わる」と弁明。しかし、トップの交代とともに消えていった。現役の第一線の営業を離れたから書くこの私の文章が、実は一番たちの悪い「自分のことは棚に上げて、饒舌な人」なのかもしれない。SNSの興隆も「自分のことは棚に上げる」人たちの爆発的な増加につながっている。立場変われば文言変わる一貫性のなさ。
アドマン。
毎週月曜の朝の営業会議は嫌でしたね。支店長への報告は真実も有り、でっち上げも有りと様々でした。深く追求されても所詮は他人様(クライアント)の懐の事情ですから真実など全く不明なのに、如何にも内情を把握してでもいるような嘘八百を並べ立てて嫌な追及から逃れる事ばかり考えて居ましたね。日曜日にまとめた予想数字を一枚の用紙にして全員に配布しての言い訳でしたね。しかし、それも仕事量と共に信じられない好成績の時が訪れると鼻高々で天狗でしたね。そんな時は弁解などの言葉もなく「この数字をよく見ろ!」と言わんばかりでした。それだけ忙しく大変でしたが、営業時代には忙しい時は元気でした。そんな或る日の会議で支店長と同年の営業マンが追及されてキレました。「それなら、あんたがやって見せろ!」と。その場が一変して険悪なムードになり、一体どうなるのか?。しかし自分の数字は良かったので知らんぷりの自分が居ました。そしてキレた彼に「おっしゃる通り!」と。上司は追及が当たり前の様でしたが、どうすればいいのか親身に相談に乗ったりノウハウを教えたりするのが仕事ですね。
seto
毎週月曜の営業会議は,個人の数字ばかりで、制作部門はニコニコで出てました。おっしゃるとおおり嘘だらけの数字羅列でした。誰もが嘘を言うので私も嘘、合計する部長の数字も結局、嘘の数字で終る会議でした。悪い数字のときは早く今月終わらないかと次の月へ期待しました。営業したことない役員は、建前ばかりで嫌われていましたし、なんノアドバイスもありません。支店長にキレた人の気持ちわかりますね。さっき函館の辻商事の倒産ニュース入りました。社長の奧さん、もといた職場の人です。残念です。
坊主の孫。
SNSの誹謗中傷も同じで、自分の事は棚に上げて他人様には手厳しいですね。それが自分に火の粉が降りかかれば反論どころか黙り込んでトンずらです。顔も見せず声も出さずに只々文字での攻撃は超えてはいけない一線も簡単に超えてしまいます。「目は口ほどに物を言う」と昔は言いましたが、対面すらないコミュニケーションの時代ですから「文字は口よりモノを言う」ですね。ネット時代とは実は「文字時代」になってしまいました。つまり言葉ではなく文字が代弁している事が多い時代ですね。ですから、文字の使い方次第では、他人を傷つけたり、極端な場合は死に至らしめたりさえも現実に起きている訳ですから「文字と言う言葉」の発言には、対面会話よりも慎重に成らなければいけないのでしょうね。文字も言葉ですから、文章にもその人の性格やその場の表情がうかがえるのではないでしょうか。気を付けたいものです。
seto
ネット時代は(文字時代)に戻ってる感じします。ピラミッドやミイラを入れるお棺のまわりの膨大なヒエログリフの文字で囲まれています。エジプト時代に回帰してるかもしれません。免疫学の多田富雄さんが石に刻まれたヒエログリフに簡単してました。古代エジプト人が現代を見ると、SNSをエジプトと同じと感じるかもしれません。歴史を残す文字、商用の数字もある。しかし,罵倒的な言語はなかったと思います。顔と顔が合えば、ひどいことは夫婦喧嘩くらいでしょう。お互い、遠慮して柔らかな言葉遣いになると思います。それが不足しているのでしょう。
昔の少年。
棚に上げる?とは、忘れると言う事ですね。棚に上げたモノが無ければよいのですが?。大抵は都合の悪い過去の事は棚に上げて忘れようとしているものです。同じ棚でも「棚からボタ餅」なんて嬉しい例えもありますからね。しかし、いつ何どき「棚ボタ」が起きるかも知れずですから何時までも棚に上げていると忘れてしまいますから、時々「棚おろし」も必要ですね。嬉しい事ばかりを棚上げして居れば別ですが(?)
seto
図書館も棚卸して、本の整理をしていました。嬉しいことは棚には置いてなくて、妄想の中にしまい込んでいます。札幌に出ると1000円パチンコしますが負けます。1万円を夢見るのですが。1000円では棚からぼた餅はないですね。10分で終るイベントです。記憶力のいい妻は私のたくさんの失敗を覚えていて困ったものです。ケンカの種です。よく覚えていますわ。