恵庭図書館

妻から「なぜブログを書くの」と聞かれ、即答できなかった。仕事仲間から「瀬戸さん、ブログ書きなよ」と3年前から言われてはいたが、「別に主張したいことはないし・・・」とやんわり断っていた。顔の見える知り合いへは、メールを書けば済んでいるし、不自由はしていない。ただ、自分のメールはけっこう文が長くてメールの中で自己主張の文字数も多いことを発見。定年を機にブログを開設した次第。でも、なぜ書くのかの回答にはなっていない。

「1984」を書いたジョージ・オーエルのエセイで”Why I Write?”(1946年)という評論がある。作家の場合ではあるけど、4つの動機を列挙していた。①純然たるエゴイズム。頭がいいと思われたい、有名になりたい、死後に名声を残したい、子供のころにいじめた連中を見返したい。オーエルは、これは科学者・芸術家・政治家・実業家などとなんら変わることがないと。人類の数パーセントだと。②美への情熱・・・自分が好きでたまらない句を並べてみたり、本を並べたり(筆者のように)すると。③歴史的衝動・・物事をあるがままに見、真相を確かめて、これを子孫のために記録しておきたいという欲望。(ブログという営みの始まりはここと④か?)④政治的目的・・これは、広い意味で用いる。世界をある一定方向に動かしたい,世の人々が理想とする社会観を変えたいという欲望。(評論家や大学教授に多い)以上。③はジャーナリストや歴史家が多いと思う。

私はこれに⑤暇つぶしを入れたい。オーエルに叱られそうである。自分が暇だから誰からも依頼もされてないのにブログを書いて、多忙な相手の貴重な時間を奪うのは失礼な、非社会的な人間のすることかもしれない。でも、意外に多いこの暇つぶしブログ、この中に、キラキラ光る何事かが書かれているかどうか、発見があるかどうかは自分の関心領域・理解の深さに左右される。世界中で自分を含めて毎日吐かれる言葉の洪水、それを止めるのが「お気に入り」の機能か?自分の関心や興味を限定する機能だ。何回もやっていると、自分が偏見の魔窟に入っていくような気がして、新しい分野に関心領域を広げる努力だけはしている。近所の図書館でいつもと違うエリアで本探しをするのに似ている。ここまで書いても、なぜブログを書くのか自分でもわからない。読んでくれてありがとう。

  1. 書く事で自分の考えや感情を言語化し構造化でき曖昧だったアイデアも文章化することで明確になり、
    書くために調べることで、本人は勿論、読者も知識が広がり、お互いの理解も深まりますね。
    自分の関心領域(例えば、これまでの満洲国での教育哲学や馬鈴薯の歴史など)を掘り下げるきっかけにもなりますね。また、書くことが知的好奇心を持続させる生涯学習エンジンにもなるでしょうね。
    文体や構成、比喩やユーモアを通じて、文化的、空想的、哲学的、創造的な表現さえもできますね。
    吾輩は猫である的なキャラクターやギャグ老人様アーキタイプを使って文化的な遊びにも展開できます。
    書くこと自体が「遊び」であり「実験」であり「冒険」であり「提案」であり「感想」だったりします。
    また、自分の思想や経験を未来に残す手段としたり、。家族や仲間、あるいは未来の読者に向けた「知的な手紙」としての役割もあるでしょうね。しかし継続は中々難しく忍耐も必要ですね。

    • ある人が11年前に私に「ブログ書いたら」とアドバイスありましたが、10年前に閑でもあり書いてみようかとなったわけで、当時のブログのほうが緊張感や生真面目さがあって好感持てます。不思議な話です。もともと新聞記者志望で10代過ごして、全部の新聞社へ「俺を記者にしてください」と手紙を書き、共同.時事通信へも出しましたが、「卒業してから応募せよ」と返信。しゃらくさいと思って、自由人の道を歩んできたわけですね。アナーキーな男ですから、どこの国に生まれても適応障害起こしてきたはず。しかし、暮らしやお金に困ったことはないのが不思議。たくさんバイトだけはしてましたね。2日や3日で辞めたバイト数知れず。若いときは何でもガムシャラでした。そういうのがブログを書くエネルギーにもつながってるのかも。向こう向きになったオットセイです。

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