ほぼ毎日のテレビで出ている男の典型は、「説教したがる男たち」であふれている。偶然、福岡伸一さんの「生命海流」(GALAPAGOS 朝日出版 27p)に、レベッカ・ソルニットの翻訳本が「説教したがる男たち」だ。例として脱力系の「ブラタモリ」も、途中で(最初から)タモリの物知り話に入り、同行のj女子アナが聞き役に回り「タモリさんって物知りですね」の場面が多いが、ひょっとして女子アナのほうがたくさん勉強して物知りかも知れず、それは隠される。うんちくを語るのはタモリのほうで、しかし、これはこの番組に限らず、NHKの歴史についての番組でも踏襲されている。説教と蘊蓄を語る場面を見て、聞く側の視点に立てば、その男は「説教したがる男」に見えることは確かだ。自分自身についても、そういう気味がないともいえい。相手が関心事を語りだしたらついつい自分も輪をかけて話すこともあった。その結果、「言い方がくどい」とか「しつこい」と言われることもあるので要注意。とはいえ、そういう場合、どういう話法があるのだろうかわからなくなる。ここで考えなければいけないのは、いったいどういう話法なり、日本語が適性な品位ある言葉になり得るかということで、ユーチューブで有名人がたとえば黒板を背にして始まる、世界分析や世の中批評も、自分へ反論・批判を述べる人をあらかじめ捨てている、排除していることに気をつけたい。対談にしても思考傾向が似ている両人の主張を前面に出している。政治が本来、議場で喧々諤々できない、その能力のない不勉強な議員が急増するにつれて、テレビや新聞の記事。番組への干渉頻度が上がってきていると思う。土俵が議事堂からテレビ局に移行、しかも自分の考えを肯定してくれるBS局への顔出しが増えてくる。そして、そこで気に入らないテレビや新聞をこき下ろす。それは説教を超えて、説得を超えて「演説に近い」。彼の属するだろう集団や家庭、町内会でも似たふるまいを続けてそこまで生き延びてきたのだが、もうそれは限界。臨海地点に来て「聞く人は誰もいなくなる」ことに注意したい。それでも俺は進むというならどうぞというしかないが、他人を巻き添えにだけはしないでほしい。菅さん!去ることで他人をたくさん幸せにする生き方もあるんだよ。彼だけではなくて、菅、安倍、麻生、森、二階も同類だ。
