どうも監視されてるような気が・・・。

人間、じっとしていると、目をキョロキョロさせる。周りを監視する癖がついてしまう。目と耳をそばだてる。週に3回の通勤で駅に向かっていたとき、散歩をしていた近所の75歳の人『札幌へお仕事ですか?』と問う。『はい』。霞が関で働いていた(これ自慢していた)元国家公務員で、定年後、関連病院の事務長を経験していて、交差点の角の平屋に住んでいる。小学生の通学路で信号機もあるので安全確認をしてありがたい存在なのだが、100本以上のバラづくりをしていて、見学者も絶えないのだが、新型コロナが札幌で増えだした2020年の2月ころから、札幌へ行く通勤客が減っても私は通常通勤を続けた。そのたびに気になったのが,どうも監視されてるような視線であった。2021年3月で仕事を辞めて通勤が無くなってから、私に声をかけてくるようになった。たまたま「同調圧力」(鴻上尚史&佐藤直樹)を読んでいて、古来からの’世間論を議論していた。社会の目ではなくて、世間の目で人生が狂っていく日本人が多過ぎる(死にまで至るケースが後を絶たない)ことを具体的な事例で議論していた。はじめは地域社会から学校から職場から政治家から犯罪者の家庭にまで21世紀に入っても、「私は私だ文句あるか」の価値観が嫌われてしまう。そして排他性を発揮する共同体に変貌する。そこまでいかなくても、たえず、他人の行動を監視して分析して、そういうことは新型のコロナが蔓延しているのに正しいことなのかな?とある意味他人への裁き心を発揮させている。新型コロナ患者自身も自分の苦しみより、勤めている会社の同僚や地域の人々へ謝罪する。独り身でのコロナ患者が部屋に籠ってもいたら手伝うことありませんかと声をかけるくらいできないかと私ならするだろう。しかし、いまは自治体は患者の住み場所は教えない。彼ら行政の人間が先回りして世間の怖さ(暴力性)を知っているのだ。しかし、考えてみよう。監視する目は権力であるということ。噂はSNSで拡散する。「同調圧力」にSNSのSは社会(ソシャル)のSではなく世間のSだと