地縁が誰にもわかりやす出てくるのは落語の長屋だと思いきや、落語に関係がなくても、私の住む団地もそうだ。何かあれば隣近所が救急車を呼んでくれたり、助けてくれる関係をつくっている。


昔は意図的に作らなくても困っていたらお互い様、助け合ったものである。子供が何人いて、いま何をしていて結婚しているかしていないか、どんな企業に勤めていていまどこに住んでいるかまで知り合って、プライバシーが気持ちのいいくらいない開放空間だ。不寛容な社会はプライバシーが閉鎖空間の中でのみ守られている、自分は知られたくないから相手のことも知ろうとしたくない・・そんな習慣の堆積から生じる。言いたいことは遠慮して言わなかったり(プライナシー侵害だと思ったり、相手を傷つけると勝手に先回りして自己解釈、結果は自分が傷つきたくないから、見ざる言わざる聞かざるに陥る)


朝、筆者の自宅前をウォーキングするおじさんも『苗木切りや松の剪定など、なんでもしてあげるから遠慮なく言って』という人までいる。そのために軽トラックを購入してもいる。町内の無料便利屋さんとして働こうとしている。いまは亡くなったが、隣のご主人は『いつでも緊急にお金が必要なら神棚に10万円置いてあるから貸しますよ』と言われたこともある。葬祭のときには助かるなと思いながら借りることはなかったが、そう言われた自分が嬉しかったのが本音だが。


競馬で負けこんでいる人から『お金を○○万円貸してくれ』とは言われたが、これだけは貸せなかった。貸せば繰り返すだけであるから1万円を上げて返さなくていいよと縁切りすればいいこと。これは善意に人を助けるということではないと判断したわけである。友人関係も切れるだろうがやむ終えない。考えてみると友人は切れるが快適に過ごすには快適な隣人が必要で、地縁は大事である。


こうしたことは宗教や国や民族に関係なく、生きている。生きる基本は、実はこうした地縁と彼我の人間性に負うところも多い。奥さんはじめ女性はこれを作るのがとても上手だ。なぜなのだろうか?子供がいれば同級生のお母さん方とワイワイ楽しい時間を持っている。いつ見てもうらやましいと思う。これを繰り返していると自然に地縁ができてくるわけだ。


長屋を縦にしたのがマンションというと、億を超えるマンションを長屋と言うのは失礼だと思う人も多いと思うが、地縁の形成されにくい、単なる他人との暮らしの比較競争に終始するなら疲れるだけで、無理に無理を重ねて病気を誘発することにもなりそうだ。マンションからは落語のシナリオは作りにくい。やはり、フラットな世界、平板な暮らしから人情が生まれる。


たぶん、どんな時代になっても、国籍を超えて、通じるのが人情の世界ではないかなと筆者は希望的な観測を交えて、そう思う。数学でも、パソコン技術でもなくて、その人の持ってる人情力があればあるほど、事故や病気に見舞われなければ、生き延びられる可能性は広がる(致死率100%でがあるが)。そのために、近所付き合いはどんどんしたいものである。

  1. 「近所づきあい」は良い環境が基本で成り立つのでしょうね。一戸建ての環境でも近所づきあいは限られていますね。全部とは言い切れませんが、不思議な事に角地の人たちは比較的近所付き合いを嫌う傾向にありますね。中地の場合は三辺が両隣や裏の家に接していて庭からでも会話できますが、角地は二辺を道路に面していて、隣と接する壁には水回りの壁などで窓も小さく、遮断されている場合が多く、お互いの庭で顔を合わす事もありませんからね。昔の長屋風に近所づきあいが出来る環境をつくるなら、マンションでも戸建てでも設計段階から考えなければ、ますます孤立社会は拡大しますね。

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