毎日、新聞のお悔やみ欄を読むけれど零歳もいれば102歳以上もいる。それが同じ平面で書かれていたり、並んでいたりする。20歳代の死亡広告は、喪主が父親や母親で、思わず、病気なのか交通事故か自殺なのか想像してしまう。


札幌市内の葬儀屋さんに聞くと、亡くなっても新聞に掲載しない人が半分以上だと言っていた。かく言う私も母の死去は掲載せず、家族10人でひっそりやった。しかし、家族葬とはいえ安くなく香典がほとんどない状態だったから100名集まった父の葬儀とかかった遺族の負担費用は変わらなかったのは発見だった。


自分の死んだ顔を兄弟や家族に見られるのも嫌だなとも思った。だから自分の葬儀は、次の日に直送して焼き場へ運んでもらうことにしてある。戒名も要らず、お経も要らない。妻子にも伝えてある。両親の入るある市の東本願寺の納骨堂だけは勘弁願う。


とにかく金を無心されて、本堂が耐震基準に達せず、新築するので檀家約400軒で2億円を負担するので『よろしく』という檀家総代の文書1通。すでに父母の葬儀と納骨堂購入で200万円を超える出費。さらに『仏壇磨きに来ませんね』とまで若い住職から皮肉を言われ、金乞食と労働奉仕乞食の寺であった。


調べると3回忌や7回忌や13回忌も、お寺の住職一家の暮らしを支えるために発明されたイベントらしい。いまなら、シングルマザーを助けたり、ホームレスを助けたり、引きこもり同士が遊びに来れるスペースを提供したり、寺本来の地域に根ざした活動をいくらでもできるのに、そこまでやるならお寺を助けてやろうかとも思うが、唯一の娘を京都の同志社へ入れて『合格祝いに大学名入りのボールペン』を檀家各位に送ってくる無神経さ。せめて黙っていればいいものを。


寺から来る毎月の文書はすべて実兄の住む川崎へ届くようにしている。飛行機に乗って仏壇磨きには来ないだろう。50代の知人の葬儀は3回のうち2回は音楽葬で無宗教であった。アマゾンでお坊さん宅配便が話題になったり、パソコンの中に仏壇を設けるところもある。私の住む町には永大供養で5万円で集団散骨できる制度もある。犬やネコみたいであるが、犬やネコより立派なのが生物としての人間とも思えず、それでいいのではないかと思うこのごろだ。

  1. お寺側からの反論も聞きたいですね。都会の家庭では寺とのつながりも希薄になっている場合が多いようですね。田舎では違いましたね。我が家はそれほどでもありませんでしたが、住職を「お寺さん」と呼んでいましたね。年に何度かの檀家まわりと、葬儀の時と、法事にもお経を上げてもらっていましたね。法事と言っても持ち回り当番制で今回はどこどこの家で、と言う具合に村人が集まって、持ち寄った食材で料理を作って、囲炉裏で煮炊きしてご馳走を食べて、子供たちは楽しかったですね。お寺さんが来ない季節には寺町のお寺にお参りに行く人もいましたね。立派な古いお寺で、住職と奥さんと子供たちで寺を守っているんですね。中庭に藻が生えていてきれいでした。広い境内も庭も、屋内も、毎日住職と家族でこぎれいにしていました。誰が訪問しても、中庭の見える離れの座敷に招いてお茶とお菓子で歓迎してくれました。寄付は強要されませんが、信仰心のある方々の寄付金でまかなっているようでした。我が家の毎朝の掃除機かけでも汗をかく私には、あんな広い寺の掃除や庭の手入れ、多雪地帯ですから除雪などはとてもできません。祖父がその寺の伴僧をしていたと聞いていました。父の代からは疎遠になっていたのですが、両親のお骨は、その寺の建物内の納骨堂に納めて永代供養をお願いしてあります。本州にはなかなか行けず、ご無沙汰しています。都会に見るビルのような寺ではなく、まるで国宝のような古い寺ですから、たまには訪問したいですね。

  2. 最後に残したいもの。

    僕も身辺整理を初めている。最後に残すのは、家屋だけにしたい。残した家屋は息子や娘たちが勝手にしたらいいと思う。これまでに歴史に名を刻んだでもなく、平凡に送ってきた人生に残すものなど何もない。たまたま、息子が今はやりの「家族葬」の葬祭業に居る関係で、あまり心配はしていない。だから大げさな葬儀はお断わりだし、棺桶を覗かれたり、香典集めもしたくない。さらに「お骨」も残したくないし、「お墓」も要らない。しいて言うなら、どこかにリンゴの木でも、桜の木でも「一本の植樹」程度なら残してもいいかなと思っている。自身は完全焼却で、残された者たちにも一切迷惑をかけたくない。心の片隅にでも、置かせて貰えればそれでいい。父が河川敷に植えた桜の木が今では大きくなっているのを思い出した。春にはきれいな花が咲き、地域の人たちに大変喜ばれている。植えたのは父と知っているのは僕だけだが。

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