愚か者ほど出世する

哲学教授の基本思考に、私たちの過去は暗躍だったが、これから目指す未来はいまより輝かしいという希望的な観測が見え隠れする。旧石器時代より、サルより、脳を有効に使い、身体的には弱い動物であった人間は、知恵を出し合い、ここまできた。

この地球上では、生き残るための法則は「数か力」であって「数と力」ではない。ライオンは少ないがサバンナでは最強だ。ガゼルも食われるが、数が多いので種は救われる。法則は、少数者は力を持ち、弱者の方は数を持つということだ。少数者の強者が増えれば、食べ物を手に入れられず餓死するし、弱いうえに数が少ないと未来はない。人間は、この法則を破る新たな道を進んだ。知能である。

この武器は並外れた力を発揮して、地上の他のあらゆる種の運命を一手に握らせた。知性は人間を絶滅から救い、現在の私たちにしている。しかし、いまでは、人類の進化が始まったときとは状況が全く異なる。多数の種を絶滅に追い込み、人間の(いまでは多すぎる)数と能力が、地球という複雑かつデリケートなシステムのバランスに脅威を与えている。地球をひとつの生命体とみなした、イギリスの生態学者ジェームス・ラブロックは、地球は人間に滅ぼされるより前に、人間をシラミのように除去してしまうかもしれないと言う。

フランスの哲学者レーモン・アロンは、人類にとって危険は、滅びてしまうことではなくて数が増えること、成長し過ぎることなのだ、力においても。「数と爆弾」(レーモン・アロン)だ。これは、どういうことかというと、知性はもう役目を終えたということだ。わたしたちは、人間の能力について(1)ひたすら成長する(2)いつまでも存在する(3)ホモサピエンス・サピエンスはもっぱら知能を存続させ、たとえいなくても、コンピューターや他の生命形態で存続する。

19世紀のある学者が、ある村に愚か者、無学、酒好き、ケンカ好きの100人のアイルランド人(このたとえどうかなと筆者)と同数の教養があり、礼儀正しい、穏健なイングランド人(これもどうかな?)を一緒に住まわせたら、数世代後、何千人かの粗野な人間だけで「紳士」はいなくなると。意地悪な学者のたとえではあるが、性格が選択・継承されるとき、他を制するのはもっとも悪い性格であり、遺伝的資質においても、悪貨は良貨を駆逐する。これは倫理や審美感などの価値観を持たないで理解してほしい。

ありがたくはないけれども、人類の存続のために大事なのは量であって、質ではないという考えを受け入れないといけないのかもしれない。また、ホモ・サピエンス・サピエンスは、他の動物にはない別な本能も持っている。同種間の攻撃性であり、仲間に向ける獰猛な破壊力。集団にせよ、個人にせよ、自分の同類を殺そうというほどの攻撃性の深い衝動はどうして働くのか?知性の点で秀でたギリシャ人がなぜ、全ヨーロッパを植民地化しなかったか?ホメロスによれば、戦いに参加したのは、強くて心身に優れた者たち(つまり選別して)戦地に赴き亡くなったと。高貴で知性ある人々だった。

戦争は知性の絶対量を激減させたともいえる(これは私の感想)。さらに、君主制・民主制・独裁制だろうと人間の社会は、知性とその現れに抵抗する方向へ進む。権力は強くなったとたんに、書物を焼き、書いた人間を殺し、危険分子の無差別な粛清をやる。

スペインがあれだけ世界を制覇して驚くほどの後退をした原因をダーウインは「教皇庁の異端審問所は、もっとも勇気ある開放的な人々を念入りに選び出し、焼き殺したり牢獄につないだ。スペインでは、傑出した人々・・疑ったり問題提起をしたりした人々だが、疑問がなければ進歩しない・・・が3世紀にわたって、年に1000人の割合で排除された」と書いた。カンボジアでも学位がある、外国語を理解する、チェスが強いなどが死刑の理由でおよそ200万人が虐殺された。ソビエトもポーランドの知識人を一掃するためにスターリンはカチンの森で虐殺。自国のインテリも平然と虐殺。ヒットラーしかり。権力者はまるで知性は破壊せよという衝動に従っているようだ。

(私の感想・・・うーん。どうだろう?知的な人だけでなくてある民族や障害者・子供や老人・気に食わない宗徒・ジプシーもたくさん犠牲になっているわけだから、知性に思い入れをし過ぎてるかもしれない。ペシミスティクな人間観が垣間見える。オルテガの「大衆の反逆」を読んだ後のような感じがする)。

 

  1. 画一的な人間は組織をつくるうえで必要で『右向け~!』で左を向く者は秩序を乱すので排除される。大げさな世界の話を小さな社会や地域にすり替えれば、殺し合いでなくとも似たような事は日常にいくらでもある。会社で上司が代われば部下の顔ぶれや態度も変わり、お付き合いの中での意見が食い違いから排除されたり、人間にかぎらず動物園の猿だってボスが統率する。学校教育から個性を伸ばす教育と言いながら一対一、マンツーマンではないので同じ教育がなされる。知的な人間と思っている人は愚かな人の尺度を自分で決めているのだろうか?愚かな人は自分が愚かだと思われていることを知っているのだろうか?また、知的だと思っている人を知的と認めているのだろうか?自分の環境立場で解釈の尺度が異なるので白黒はっきり二極分化はできないのではないか。いずれが地球のボスになろうとも生かすか殺すかの境目を決めること自体、愚かで曖昧な選択に過ぎないのではないだろうか。歴史に刻まれた不幸な事実は覆せないが、少なくともこれだけ学習すれば同じ事の繰り返しは猿でもしないのではないだろうか?・・・失礼!猿を愚かと思ってはいません。失言お許しください。

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