閑話休題 おとぎ話のメッセージ 米原万理
「愚か者ほど出世する」は、きょうはお休み。大好きな故米原万理さんのエセイ「心臓に毛が生えている理由(わけ)」から。(角川学芸出版54p)
「愚か者・・」の著者ピーノ・アプレリーレも米原万理さんも偶然1950年生まれだ。私は1951年生まれでも早生まれなので、学年は1950年と一緒。同じ時代の空気を自然に吸っていたのだなあと改めて思う次第だ。
世界中のおとぎ話に、継母(ままはは)に虐められる継子の物語がある。ペローの「シンデレラ」でもマルシャークの「森は生きている」でも、意地悪な継母は主人公をこき使い働かせ、自分の血を分けた娘たちには、炊事・洗濯一切させず、お姫様のように蝶や花よと甘やかす。白雪姫も、結局実家の城にいられなくなり、小人たちのもとで、家事をすべて引き受ける。人類は実に長きにわたって、肉体労働を全くしないことこそが、最高の幸せなのだというふうに考えてきた。(自由人ひとりに10人の奴隷で構成されたギリシャから1%の大金持ちが投資や金融で超金持ちと99%の貧困なアメリカまで・・筆者)
発明や研究は、重労働をいかに軽減するかに心砕く。そういう価値観がおとぎ話には溢れている。働きづめのシンデレラは不幸のどん底。働かなくてもいい身分の白雪姫が働いているのは異常なことであると。物語の最後では王子(働かなくてもいい身分)に見初められてお姫様になり、ハッピーエンド。この考え方は、いまの日本でも大勢を占めていて、子供に家業はおろか、家事など手伝いをさせるのは可哀想と考えてる親が多い
ただただ遊び、勉強する、要するに自分のためだけに生きる条件を整えるのが親の子への愛の証と思い込んでいる。ところが、おとぎ話は、別なメッセージも込められている。働かず、甘やかされた継母の実の娘たちは、わがままでバカで薄情で意地悪で傲慢なのに対して、働き者のシンデレラも、白雪姫も「森は生きている」の継娘も優しくて賢くて皆に愛されている。だから社会的に成功する。
これは偶然なのではなくて、労働こそが人を真っ当にすることに、人類は古くから気づいていたのではないだろうか。現代、賢明な母親なら伝統的な継子虐めの方法を逆転させて、自分の産んだ娘たちをさんざん働かせ、尻を叩き家事と学問を身につかせる一方、継子はお客様扱いで掃除洗濯もしてあげ、欲しいものは何でも買ってあげる。そうやって、全く誰の役にも立たない、誰からも愛されず尊敬されないおバカなエゴイストに育てるのだ。
ほとんど米原さんのエセイの引き写しではあるが、自分の子育てを含めて思い当たる節が多々あって、身近にも子供時代は、欲しいものはすぐに手に入れ(子供の数も少ないし)、育っていった子供たちが、社会に出て弱い存在になっていき、あるものは早々の辞表を書いてUターン、引きこもりに入る。小さなころから家事や炊事をさせる意義は、時間の経過とともにその重みがましてくる。
筆者の年齢になって、ヒシヒシそれを感じる。私も父や母から家事や洗濯・料理・肉体労働を課せられていないひとりだ。小人閑居して不善をなすという諺どおり、無職の男の犯罪(こういう言い方が差別に当たるのか?)が増えてきている気がする。流通業界がトラックの運転手が不足してピンチだ。ひとり30万円でも補助を出してトラック運転手の資格を取らせる補助金3億でもあれば10万の人たちを雇用できる。自動車学校も運輸会社も無職の人たちも通販会社も消費者も助かる補助金だと思うがどうだろうか。
bear
米原さんのエッセイは読んでいないが、彼女がそのようなことを書いていましたか。
しかし、「労働こそが人を真っ当にすることに、人類は古くから気づいていたのではないだろうか。」はどんなものでしょうか。そんな考えが昔の人たちの間で共有されていたとは、ちょっと信じられない。これは「継子継母」の問題に起因して、物語ができたと考えた方が自然かなという気がします。それに似た出来事が過去にあり、それが伝承され、文字となり、書物となって我々に伝わっているのでしょう。
きっと日本にもあり中国にもある。だとすれば「労働賛歌」ではない人類共通のものが底に流れているような気がします。
僕はそう思います。
後段の現代の分析は僕にはわからない。現代の子育ての方法が、ひ弱な子供を育てる結果になる。過保護がそうさせるかもしれないが、過保護と労働(家事の手伝い)の関連性はゆっくり考えたい。
seto
たぶん彼女の希望を含めて書いたのだと思いますよ。労働こそが人をまっとうにすると。人類は云々も彼女の仮説だと思います。話の流れでそういう
ことになって。話のスタートが継子継母で、おっしゃるように、現実にそういうことがあって物語はできたのでしょうね。私も、子供に家事を教えず
じまいだし、私自身も親から家事をしろと言われて育ってないので、お恥ずかしい。