京都再び。(2015年10月28日掲載)
きょうから601回目です。
前回、『京都嫌い』について書かれた本を紹介したが、洛中の人間が洛外を差別する話が中心であったが、そもそも京都はどうであったかを森さんの本から拾ってみた。
数学者森毅さんの本に書かれた京都
21世紀の日本は多民族国家に生まれ変わる・・と題した章に「では、日本は多民族国家になって困るか。いや困らぬ。なぜなら、それが日本の伝統だからだ。京都の成り立ちを考えてみればわかる。京都は千年ほど前は朝鮮系の渡来人の町だった。そこに天皇家が都を構えたに過ぎない。京都には5百年くらい前、中国人の僧侶によって建立された寺もたくさんある。
外国の人も文化も受け入れていたのが日本の伝統なのである。江戸時代にしても、鎖国をしていたとはいえ、実際は南蛮文化が次々と日本に入ってきていた。祇園祭だって南蛮ゆかりのものが多い。外国への門戸を閉ざしたのは、むしろ明治以降である。ルートが公然化した(お雇い外国人採用他・・筆者注)のとは裏腹に殻を固くした。」(森毅「大事な話)~みんなが忘れてしまった~124p 1992年)。
こういう大事な話は、たとえば日本の国歌「君が代」の起源が歌詞は古今和歌集の雅歌を原型とするが、「最初に曲をつけたのは、イギリス公使館にいた軍楽隊長ジョン・ウィリアムス・フェントンです。それが洋風の音階ではなじみが悪かったために、宮内庁の伶人によって改作され、それをドイツ人フランツ・エッケルトがアレンジした」(内田樹「日本辺境論」113p 2009年)。
「君が代」は3か国の人によって作られた話は、この本のページを読むまで筆者は知らなかったし、京都の町が千年前は、朝鮮系の渡来人の町だったという認識も森さんのこのページを開くまで知らなかった。朝鮮人と仲良く同居していたのだ。小学校の音楽教材にも日本史の1ページにきちんとこういうことが書かれてあるのだろうか寡聞にしてわからないが、私の受けた義務教育の中では記憶にない。
森さんは「本当に閉鎖的になったのは戦後だ。・・・内面的にはこのとき以来、心を閉じている。だから、日本人が排外的になったとのはごく最近のことなのだ」(同書)1992年発刊の本なので、バブル期に書かれた本だ。日本から出る海外旅行者が1340万人になっても、「誰もがせかせか動き過ぎる。あちこち廻りすぎる。しかし、どんなにどっさり見て廻っても、人間は自分とかかわりのあるものしか目を向けない。ちょうどハイエナが、いつも腐肉に近づいていくように」(池内紀 ひとり旅は楽し2004年)。
自分の既成観念を壊してくれる本はありがたい。たとえそれが結果として間違っていても、同じ考え方の人間の本を読むより、大脳が柔らかくなって気持ちがいい。何歳になっても自分の観念や思い込みを強化する本やニュースではなくて、むしろそれを壊すものに対峙できる、受け入れる自分でありたいと思う。腐肉に近づくハイエナにならないために。
一見さん。
京都には絵を描きに行っては何も描けずに大阪に戻った事が何度もある。観光客が多すぎて静かにスケッチするところが無い。目には焼き付いているが、絵としては残さなかった。また絵を描いている時代はカメラは大嫌いだったため写真すら残していない。京都は身近にあったため何時でもいけるところだった。田舎の小学校の修学旅行も京都だった。中学の修学旅行も京都・奈良・大阪だった。どこよりも何度も行っている京都は知れば知るほど表と裏が全く違う街だとわかった。旅行者は多いが、歓迎されては居ない街だ。
パリは遠し。
最近のフランスの状況をTVで報じていた。TVの映像がすべてではないが、花のパリから以前のような活気が消えていた。テロの影響で観光客の足が遠のいたからだ。移民たちの経営する店に対する極右系の嫌がらせの銃撃など、日本では考えられない危険な状態が続いているようだ。移民に向けられている矛先を、間違って観光客に向けられる事も考えられ、銃を持つ軍隊の警備下では観光どころではない。あれだけ寛容なパリのイメージはすっかり様変わりしてしまったようだ。どこの国も他民族が一緒に暮らしている現代だが、宗教への偏見や、いつしか曲げられた教えがテロを産んでいる。京都に限らず、北海道も外国人が増えている。やがてどの国でもアメリカのニューヨークのような他民族の住み着く街に変わっていくのだろう。ただし目前に迫ったアメリカ大統領選挙の行方如何では、メキシコとの国境に壁が作られるかも知れないが。