自分が幸せかどうかは考えない。
『自分が幸せかどうかは考えない』のが客観的にみて、幸せな人かもしれないと最近考える。幸福病の本が山のように書店で積まれ、占い師たちも宗教家もここぞとばかりに参入してきてひと稼ぎしている。そういう本や占いのページを見ない人たちが一番幸せな人生を送っているように筆者には見える。
なぜなら今の自分に他人がどう思おうと幸せ感を横溢させているからあたりまえだ。悩みがない心身状態が続いて、それを意識化しなのがいい。そうであっても『瞬間風速で幸せはやってきては去り行く』のも事実。年齢を加えると碌なことが起きないと思いたい。
私はルーテル教会に5歳で行かされ、お昼の祈りの時間を拒否して自宅に逃げてきて、ドイツ人神父が自転車で追ってきても柱を抱きしめて動かず退園した。とにかく集団生活がダメだ。集団での暗唱もダメ。中学のときも音楽大会の練習も騒いで全体を乱す。行動の記録に『C』を付けられてヒドイ目に遭った。そんな私でもなんとかここまで生きてきたとは奇跡に近い。『C』が付くと高校進学も危ういらしい。
そのとき私に最悪の点数をつけた担任は、美人の女子生徒のお尻を触るのが趣味で、後に札幌市教育委員会で出世していったと聞いている。市教委もテキトーなところである。当時は教師に親が文句を言う風潮もなく、何事もテキトーな家庭と学校であった。これはゆとりというより、別なことにたくさんの関心(遊びやクラブ活動や漫画読み)があったのだろうと思う。
当時、10代は無限に時間が続くと思っていて『大人にはなりたくない』感の男(少年)たちの群れ。それに比べて女性たちの早熟な成長がまぶしかった。書いているテーマが『自分が幸せかどうか考えない』という話からそれていったが、テキトーな人生、テキトーな幸せ感、テキトーなちょっとした不幸感、テキトーな遊び。嫌なやつとはテキトーな距離を保ちながら深入りは避ける。
原理原則主張の強い、信者っぽい人間も要注意。他人の不幸感・不幸そうな事件に首を突っ込んできて、その解決やアドバイスをし出すので困ったものである。何でも正しいことばかり言える人間なんて世の中にはいないわ!とテキトーに逃げ回りましょう。
昨日、友人夫婦と登別温泉へ行ったけど『バイキング料理を片付けに来るホテルの中国人従業員のタイミングが早すぎる話や朝の和室の布団を片付けにくる早さ(朝の8時30分)チェックアウト10時なので客が帰った後にすべき』という妻の主張は正しいが、金曜から全館満室で、観光地はどこも人手不足を考えれば、台湾観光客が大挙押し寄せ、そういう余裕のある対応はできにくいと筆者はホテル側に同情的である。
完全主義の原理原則を貫くと、いまの時代、生きづらいと思う。生死にかかわらないことだからテキトーにやり過ごせるものはやり過ごすのが幸せを長引かせるコツだと思う。いいお湯に入れて、安い値段でうまいもの食べれればそれでいい。しかも運転は友人で筆者は助手席と楽々ミニ温泉ツア。文句を言うと地獄の鬼に叱られる。登別へ行くまでに立ち寄った白老ハンバーグ。
不幸も幸福も何度も経験済み。
とは言っても、私などと違って、結構面倒見のいい、つきあいもいい、おしゃべり好きの性格ですね。それらの日常が幸せなんじゃあ無いでしょうか。私も幸せも意識せず、毎日毎日を、ただ精一杯生きているだけですが、それも、深刻な悩みが比較的少ない?いやぁ、悩みを深く考える事もないからなのかも知れません。改めて聞かれれば、悩みなんて誰にでもたくさんあるのでしょうね。幸せ感の尺度も、悩みの深刻度も人それぞれ、受け止め方が違うのでしょうが、幸福と不幸の間に境界線があるとすれば、私などは境界線の幸福側にいるのだと思いますね。例え、一歩でも。