観念で自然を見る癖・・2015年11月30日再録
直接、自然に向き合わない。
中島義道さん「醜い日本の私」(新調文庫74p)に、自然への日本人の対応(付き合い方)について「丸山真男座談7巻目」から、木下順二、森有正との鼎談がある。その中で、森有正さんがこんなことを言っている。
森有正:一人の個人が自然と向かい合うということがない。名所旧跡しか目に入らない。
森有正:われわれは自然を見て、必ず西行がどう言った、芭蕉がどういう句をつくったということを考えながら見ている。ああこの岩にはセミの声がしみ込んでいる感じだ、と思いながら見ている。芭蕉を思い出しているので、岩なんか見ていないのですよ。
パリで客死した森さんは樫の木が大好きだった、夏休みになると北海道大学へ来てクラーク会館に宿泊し、そこにあるパイプオルガンを弾いて構内にある巨大な樫の木を眺めていたか、きっと近くの植物園の樫の木も鑑賞していたんだろうなと想像する。彼のエセイに出てくる。丸山さんはじめ、木下順二さんも・・
木下順二:個という問題がはっきりしないものだから、だれかがつくってくれた何かに対して順応するという関係になっちゃってる。
丸山昌男:・・・・・野外の桜見の会などでも幔幕(まんまく)をめぐらしたりして、内輪の間柄を強調する。・・・・・日常的な関係を自然の中に持ち込んで楽しんでいるので、個対自然じゃないんだな。
「自然ははっきりいって怖い」、一対一で向き合うと「恐怖」を感じたことが私には3回ある。一度は福井の永平寺へ福井電鉄で行ったとき、そこの杉林の林立に圧倒されたとき。2度目は支笏湖であまり観光客の行かない「美笛の森」だ。手つかずの古代の森が残っていて、狭い山道(森の中を)走るのだけどパニックが起きそうになった。湖畔の美笛キャンプ場に到着してほっとした。3回目は、林道工事のアルバイトをしていたとき、仕事がはかどらず秋は闇が来るのが早い。街灯もないし、ヘルメットランプもなく、笹を刈っただけの道を頼って4人で歩くのだけど、強烈な黒い闇がどんどん襲ってくる。ガサゴソ音が聞こえたりしたら、ヒグマの接近もあるから、口笛を吹いたり、爆竹を鳴らして不安を解消する。自然の恐怖を感じた。
電気が発明されて、150年にも満たない。人間の歴史のほとんどは闇と自然の世界だ。中国の秦の始皇帝も兵馬傭を焼くために、どれだけの森を燃料として破壊していったか。それから見れば、日本の自然観は可愛いものかもしれないが、自分たちの思考習慣に「頭の観念で物を見る癖」が深く深く根付いていて、直接、自然には対峙していないことを想起しながら、自省を加えていきたいものである。しかし、厳密に考えると「観念で見る自然」と「直接対峙する自然」って、どこがどう違うのかわからなくなる。生きてる限り、自分の意識から出れないわけだし。意識の牢獄に住んでいるのが人間かもしれない。
その意識の牢獄が突然の本物の自然の出現で、閉鎖の意識を突然開放し、情緒が不安定になるのだろうと思う。都会にいるとこれは閉じられている。
自分の目、耳、頭、鼻、皮膚。その感覚を大事にしよう。最後に、日本の街中の電線は醜いから、商店街はもっと積極的に地中に電線を埋めて、目に映る美しい街並みを。中島さんの絶望的な希望です。
炭焼き窯での宿泊。
永平寺のある福井の山村で育った僕は山や森に恐怖を感じた事はそれほど無かったような気がするが、小学生の頃に父が作った炭焼き窯に火を入れた後に、数日泊まる事があった。火の番は、木炭を焼く上で大切な仕事だからだ。山奥の獣道のような所を徒歩で登らなければ行けないところに炭窯はあった。窯の入り口は土で塞がれるが、小さな覗き窓から火の状態を確認する。夜になって土間にムシロを敷いて寝る。電気もない。明かりを点すにはカンテラしか無い。寝るときにはそれも消して真っ暗闇の粗末な丸太組みの茅葺小屋の外は得体の知れない闇だ。夜中に獣だろうか?変な鳴き声や、ガサゴソと薮をかき分ける音がする。自然は、昼と夜は全く違う世界になる。独りで居たら、きっと眠れなかったと思う。月明かりでもあれば別だが、もしも、あんな暗闇の中で動けば危険だ。
山猿。
田舎育ちの僕は、自然の中で、いろんな目に遭っている。濁流の川に落とされたり、生木を数本背負って丸木橋で足を滑らせ仰向けに谷川に。顔も水の中につかり、一瞬死ぬかとさえ思った。柿の木から足を滑らせて数メートル下に落下した事も。でもそんな怖い自然は、遊び場でもあり、写生や遠足などの教育の場でもあった。現代のような立派な施設や乗り物など皆無だった。田舎には古戦場や城跡や仏閣など、少し足を延ばせば、いくらでも歴史の教材が転がっていたが、田舎の僕たちには、興味対象外だった。今、思えばもったいない事をしたと後悔している。
兎美味しい。
猿や猪、松茸狩りでは熊にも遭遇した。大蛇も見た。孫たちに「♪兎美味しい、かの山〜」と、唄って、兎狩りと兎肉のすき焼きは美味かったと話し、顰蹙をかっている。時代は大きく代わって、僕たちの幼少期の暮らしは全てサバイバル化しているようだ。生き物の姿も想像出来ない、スーパーマーケットに並ぶ動物の肉や魚を、昔以上に消費していても、実感が無いのだろう。