人生の短さについて(セネカ) 2016年3月27日
人生の短さについて(セネカより)
事故や病気で短命に終わらなければ、人生は十分に長いのだ・・・。
セネカ(BC4~AD65)は、最後は皇帝ネロから自死を命じられて死んだが69歳まで生きた。長命な人であった。
当時は5歳までに亡くなる人が15~35%。5歳以上生きてても平均余命が40代の時代だ。ローマの習慣で子供が亡くなると、葬式は夜分に松明とローソクをつけて墓場まで行く。セネカ本人は元老院で執政もして、公的にも多忙を極めた。実際、周りにたくさんの統治している市民を観察して書いたのが「人生の短さについて」だ。
「暇」の大切さ、多忙の持つ「欺瞞性」「非本来的な生き方」の対比で書かれてある。それをたとえでこう書く。「毎日、毎日を最後の一日と決める人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない。なぜというに、新しい楽しみのひとときが何をもたらそうとも、それがなんだというのだろうか。(中略)このような人生には、加えるものはあっても、引くものは何一つありえない。」「われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことを完成できるほど豊富に与えられている。〈中略〉我々は短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである~我々の一生も上手に按配する者には、著しく広がるものである」。
セネカは、人生と時間を分ける。時間の経過は「貪欲に囚われ、無駄な苦労をし、酒浸り、博奕びたり、他人の意見に左右され、自分の野心に引きずられ、疲れ果てている者もいれば、商売でしゃにむに儲けたい一心から、国という国、海という海の至るところを利欲の夢に駆り立てられている者もある。絶えず他人に危険を加えることに没頭するか、あるいは自分に自分に危険のくわえられることを心配しながら戦争熱に浮かされている者もある」。
私はこの本を20代の初期に買っていたが、ストア派の禁欲主義の人には共感せず、エピクロスの快楽主義が自分に合っているわと・・食わず嫌いなまま多くの時間を広告営業とお客や同僚との飲み会、出世競争、パチンコに費やしてきた。
40年経過してセネカの文を再読すると、60歳を過ぎると、身に染みて言葉の数々が胸に刺さる。私は口癖のように言ってたのが「あっという間に時間が過ぎた」「光陰矢の如し」「少年老い易く学なりがたし」と思っていたから、「そうだよな、こういうセネカの考え方もありだな」と。
日々のスケジュール表に振り回されていた時代、どこかそこにほっとしたものを感じていた自分はいなかっかたかと反省する。ビジネス手帳に用事を書き込むときの快感もあったかもしれない。空白に耐えられない自分がいたように思う。いろんな人とあったりする用事がなくても自分に用事がある毎日。ストア主義の真髄が「自分に用事がある」ということなのかもしれない。自分に自分で会うのが怖いのかもしれない。
空白、余白、暇、他人の時間を奪わない、余計なメールはしない、私のブログもセネカから言わせれば、時間の無駄使いの最たるものだ。最後に「偉大な人物、つまり人間の犯すもろもろの過失を超絶した人物は、自分の時間から何一つ取り去られることを許さない。それゆえに、この人生はきわめて長い。用いられる限りの時間を、ことごとく自分自身のために充てているからである」
表題と違って、人生は十分に長いんだよと教えてくれる本でした。
(追記)それにしても、TV局は残酷でもう出さなくてもいい往年のスターや芸能人を皺だらけの、厚化粧で出させる。生活が苦しいからTV局から示されたギャラ額にタレントの所属事務所がOKを出して、出演させ醜悪な顔をお茶の間へ。アナログテレビ時代の肌とデジタル時代の肌はテレビでは見えが違うことをメイクの人は教えないと。(4月5日記)
百人十色。
無駄な時間と無駄なお金を持っている人が一番幸せだと言われている。しかし,ご本人にとっては,決して無駄だとは思っていない。むしろ自分は人生を謳歌していると思っているに違いない。人生いろいろ,人それぞれ考え方が異なるからどれが正しいなどとか間違っているなどとも言えない。つまり,すべてが「自分の一生」だからだ。
暇人&多忙人。
「暇」も「多忙」も自分が選んだ道ですね。どこかの分岐点で自ら選択したのでしょうから。一旦「暇」の快適さを味わえば,もう「多忙」にはなりたくないでしょうし,また「多忙」な人は,「暇」を地獄のように恐れるでしょうね。人間はもともと「怠け者」ですが,成長段階の環境で変化し,周囲の影響も,人は変わっていくのでしょうね。
自分の姿は自分では見えないもの。
TVもカメラワークが下手ですね。パーンし過ぎたり,アップにし過ぎたり,年老いた歌手やタレントの出演番組は,やっぱり老練のカメラマンを使わなければ年寄りの気持ちもわかりませんね。出演者ご本人は,いつまでも若いと自分を買いかぶっているでしょうから出演拒否しないわけですから,周りが気を使ってあげた方が視聴者の立場からも良いと思いますね。誰しも,自分の顔は見えませんが,他人の顔は良く見ますね。僕も或る時,流通大手のバックヤードに有る事務所の薄暗い前廊下で,向こうに居るのは一体?誰?と思ったら,疲れてやつれた想像を絶する自分が姿見の鏡に映っていたなんて事がありましたね。
生きる事の意味。
今日は早くも土曜日。一週間は速い。こんな感じで、もう四月。一年の3分の1にさしかかっている。この勢いだとあっという間に一年は過ぎ、二年が過ぎ、いつ終わるのかも知らずに歳を重ねている。何の為に忙しく生きているのか?と問われれば『生きるため』としか言えない。生きる為に働き、働く為に生きるということだが、何処かで、ささやかながら生きていて楽しい事もあるから、今日もこうして^_^喜んで働いたいるのでしょうね。
成行きに任せて。
今更、立派な事も出来ず、身近な事にだけに関わりを持って、大それた事もせず、与えられた時間も成行き任せで生きています。後の事など考えても、決して良い事も、思い通りにも成らないでしょうから。気張らず自然に生きる事が一番ですね。