旧ビルマ(現ミャンマー)で、ラカイン州の北側に集まって暮らすイスラム教徒に対して、仏教徒過激が激しいジェノサイトを繰り広げている。ノーベル平和賞を受賞したアウン・サー・スーチン、国土を民主化したはずのミャンマー国内で、イスラム教徒への虐殺が続いて、船でインドネシアやタイへ難民船で逃げている。国民の95%を占める仏教徒に支えられているミャンマーで一体何が起きているのか?犠牲者はラカイン州の北部に大昔から暮らすロヒンギャ。元の軍事政権が1982年の国籍法で無国籍状態に置かれ、政府や軍による暴行や略奪が続き、民族浄化(嫌な言葉だ、ナチスやロシアでも、チベットでもボスニアやセルビア、アフカリの民族紛争でも繰り返される)するために、仏教過激派指導者ウィラトゥが、イスラム教徒ロヒンギャがミャンマー人女性とをレイプしているとアジり、憎悪を煽っている。

指導者 ウィラトゥ。ロヒンギャ弾圧をアジル。

イスラム教徒の抗議デモ。

 

国を出る難民船

グーグルの画像検索では、虐殺された遺体の写真が満載されている。仏教徒といえば、近くのカンボジアのクメールルージュの毛沢東思想にかぶれた集団での知識人や都会に住む人間を中心にした大虐殺が、やはり仏教徒の国、アンコールワットという仏教芸術の国であったばかりである。仏教という宗教も場面が変われば、政治や殺す武器を持てば、思想洗脳を施せば、簡単にジェノサイトをする集団に早変わりするのだという認識を持ちたいし、日本の仏教徒の幹部たちは、クメールルージュのときもそうだけど、激しい声明を出さない。


ビルマはもともと英国の植民地で、『1984年』を書いたジョージオーエルが英国の植民地警察で働いていた。そのときの体験を後に『ビルマの日々』(BURMY DAYS)を書いた。ある死刑囚が絞首台へ向うときに、水溜りを飛び越えるシーンがあり、『死に向かう人にも人間的なデリカシーが残っている』と書いていたと記憶する。仏教徒のビルマ人には好意的な文章であった。


いまのビルマ(ミャンマー)を見て、オーエルは何を語りだすだろうかを考えてみた。『思想警察の恐怖』についてだろうか?『権力は現実を曲げて伝える』『虐殺については、目撃して生き残った人が自分の言葉を持って外へ向かって表現しないと、事件は無いことにされる』と言うかもしれない。さらに『宗教と権力と武器が一体化されて、そのトップが気が狂うと血まみれの社会が現れる』。一度でも他人を殺した人(命じた人)がその後、幸福な結末は迎えられないのが定説だとしたら、仏教過激主義者ウィラトゥの末路も哀れな結末に終わるだろうけれど、その前にアウンサースーチンはご主人の英国人と早く止めないといけない。


一体、人間を救うための宗教って、この国を含めてなんだろう?宗教って、集団化してはいけないのかもしれないのではとも思う。一人が一人の宗教になり、一切布教業務が無くなれば、宗教で暮らし食べて生きる人たちがいなくなれば、地球は住みやすい、生きやすい場所になるかもしれない。筆者の妄想ではあるが。仏教は一神教と違い、多神教でもあり、残酷な集団ではないと思っていたから、ミャンマーの事件には大ショックである。『仏教、お前もか』である。仏陀は泣いているよ。イエスもマホメットも泣いている。弟子なんて作らなければ良かったと。弟子を作ると食べさせないといけない。宗教組織になると維持するためにお金と働き手が必要。これが無理に無理が重なると、必ず犠牲が出る。新興宗教しかりである。

  1. 武器よさらば。

    戦国の昔と違って,現代の日本に限れば,仏教は過激ではないでしょう。貧富の格差が著しい世界の中で宗教同士の争いが続いていますが,これは太古から変わらないのでは無いでしょうか。ただ,現代では武装した宗教集団と言うより宗教を盾にしたテロ集団が宗教全体のイメージを壊していると思います。敬虔な信者なら殺戮などしないはずです。例え宗派が違ったとしても,互いにリスペクトし合いながら共存して行けると信じています。仏教など宗教や宗派を一掃云々よりも,先ずは全世界から殺しの道具「武器よさらば!」ですね。世界平和を願います。

  2. 浄土真宗の坊主の孫。

    宗教に限らず,争いごとは心の病から起きます。口は災いの元と言いますが,ともすれば絶えず批判的な自分に気づきます。そんな時,批判の前に代案は有るのかを考えようと思います。聞く耳を持たないとも言いますが,相手の言い分を全て聞いてから自分の意見を述べるようにしたいものです。目は物を言うと言いますが,見た目だけでの判断は間違っている事がよくあります。別の真実まで見なければならないでしょうね。手も足も出ないと言いますが,せめて自分以外のためにも,些細な手助けでも手足を動かせればいいですね。心無い人と言いますが,心は皆が持っていますね。人の心が分かれば傷つけたりいじめたりできないでしょうね。まして殺意などはもってのほかです。「口は感謝や励ますために」。「耳は最後まで話を聞くために」。「目は人の良い所を見るために」。「手足は人を助けるために」。「心は人の痛みをわかるために」。

  3. 明日は憲法記念日。

    朝鮮は儒教の国と思ってリスペクトしていたのですが?どうやら現代の朝鮮半島には通じないようです。日本の負の歴史である70数年前の大戦の産物「慰安婦」問題が再燃して対日感情を煽ったり、北では核攻撃を示唆した我が国に対する恫喝が世界のニュースとして流れたり、これまでの一番悪い状況になってしまいました。こうなってしまえば宗教もお手上げですね。中国も朝鮮も我が国のルーツでもあり,あらゆる面でお手本になっていたはずでしたが?一体どうしたのでしょうか。我が国は攻める戦争を放棄しているのですが,攻撃されれば防衛はしなければならないでしょう。手をこまねいていては国民が大量虐殺に合う事になりますからね。勝ち負けは問題外としても。明日は憲法記念日ですね。この憲法を守り抜くか?なし崩しにするか?は我々次第ですね。

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