「白い巨塔」の中で、激しい教授選挙の末、手にした浪花大学医学部第一外科教授の椅子が、患者の胃噴門部ガン手術後の死亡で遺族から医療ミスで財前は裁判を起こされる。肺にガン細胞が転移をしていてたのを見逃していたのである。国際外科学会で渡欧中の現地で彼は早刷りの朝刊記事を特派員の記者から見せられる。『財前教授、訴えられる』の見出し。


「打ちのめされるような思いの中で、財前は、貧しかった頃の自分の姿を、思い出した。北向きの三畳の下宿で芋虫のように煎餅布団にくるまり、飢えに苦しみながら、駅前食堂で空腹を充たしていた学生時代、卒業して無給助手から有給助手まで三年、講師、助教授を経て十六年目に教授になる機会を迎え、最後まで予断を許さなかった凄まじい教授選を闘い取って、やっと辿り着いたこの地位を失うことは、財前五郎の破滅を意味していた。」(新潮文庫 第3巻 144p)


さらに、財前のために偽証証言をした柳原助手も医師としての良心にさいなまれるが「ああ、早く学位を取りたいーーーー、柳原はインスタント・ラーメンの鍋を、錆びついたガス・コンロにかけ、つぶやくように言った。学位さえ取れば、独立して外来診療を持たせてもらえ、プレートに名前が出、収入も増える。それに第一、九州の田舎で郵便局長をしている父がどんなに喜ぶことだろう。自分を頭に五人の子供を抱えて、たくさんの蓄えがあるはずがなく、わずかに持っていた田畑も、自分が大学を卒業し、有給助手になるまでの仕送りで人手に渡ってしまったことを考えると、一日も早く父の望む学位を取って、一人前の医者になりたかった」(三巻 65p)


「白い巨塔」では、権力と名誉のガリガリ亡者のように描かれる財前も実は「中央郵便局のガラス扉を押して中へ入ると、財前は、現金書留封筒を買い求め、人気のない窓際の公衆卓子の前に立って、上衣の内ポケットから財布を取り出した。1万円札二枚を現金書留封筒へ封入し、岡山県和気郡伊里中 黒川きぬ様  そう宛先を書き終わると、財前の眼に温かい光が宿った。一月に一度、こうして母の名前を書き、月収五万七千円の助教授の給料の中から、岡山県の田舎で独り淋しく暮らしている母のもとへ送金する時、財前の胸に、貧しかったころのことがいつも思い出された。小学校を卒業する年に、小学校の教員をしていた父の事故死に遭い、中学校、高等学校、大学とも父の弔慰金と母の内職と奨学資金で進学し、浪速大学の医学部へ入学した年からは、村の篤志家で開業医である村井清恵の援助を受けて勉学できたのであった。その村井清恵と、妻の父である財前又一が大阪医専の同窓であったところから、財前が医学部を卒業して五年目の助手の時に、将来を嘱望されて、財前家の養子婿になったのである」(第1巻 30p)


山崎豊子の小説に出てくる男たちは、細部が具体的で、「なるほどそうであったかのか」と納得する。単に善悪で裁くのではなくて、悪にも悪の理由があり、背景が貧しさであったり、田舎から都会に出てきて、そこから這い上がろうとする人々の営みであったり。財前五郎の本名は黒川五郎。そして、表題の「打ちのめされると子供に還る男たち」の話である。筆者もつらいことがあると、少年時代の同級生に会いたくなる。成人してから利害を共にした会社員OBたちではない。故郷に帰れば「いつでもウェルカム」をしてくれる友が財前にも柳原にもたくさんいたら、もう少し楽な人生を歩めただろうと、今は亡き山崎豊子にないものねだりをする筆者であった。


それにしても彼女はどうして、男の世界、男の深い気持ちをここまで書き分けられたのであろうか?謎である。『白い巨塔』はあと1巻で完読である。貧しかった頃の自分はいまが億万長者になった人でも貧しい頃が忘れられない。夢にまでそのころのことが出てくる。殺人を犯した人がたとえ逃げて逃げて、捕まらなくても、夢に悪夢に追いかけられる。「医者というものは、たとえ最善を尽くしても自分が誤診して死なせた患者のことは、一生心の中についてまわり、忘れられないものだから、メスを持つ外科医は特に気をつけることだ」(財前の前の第一外科東教授の言葉)(第4巻 358p)。

  1. 繊細かつ大胆。

    外科医はすごいですね。他人の体を切り裂いて臓器の修復や患部の除去をして,あの曲がった手術針に通した糸で器用に縫う訳ですから。外科結びといってその結び目を心臓外科クリニックのマークに扱った事があります。中学の時,夏休みの部活でカエルの解剖をやった事がありましたが,卒倒しそうでした。あの内臓とかを見ただけで、具合が悪くなりました。或る時,田舎で段差でつまづき、足の親指を真横に割った「カマイタチ」になった時は,自分の指の肉を見て倒れそうになりました。不思議と大きな傷口から血は一滴も出ませんでした。血を見れば倒れていたかも知れません。こんなんじゃあ外科医にはなれませんね。外から眺める医者はカッコよく立派に見えますが,手を汚す汚い仕事ですね。他人の命に係わる仕事とは,すなわち他人が嫌う仕事ですからその分,地位も待遇も与えられるのでしょう。いくら優遇されても外科手術は普通の神経ではできませんね。あれも一種の慣れなんでしょうね。お腹の中にカンスを忘れて縫ってしまったなんて良く聞きますが,そのくらい神経も太くなければ出来ませんね。

    • 私も血はまったくダメです。医師なんて人生の職業選択に100%入ってません。ただ、いずれ書きますが、外科医と
      内科医と話す日本語のトーンが全く違います。10人以上の自らメスを持って治療をする医師をインタビューしました
      から。単なる内科医(威張り癖取れないかわいそうな医師はいましたが)と使う言語が違うのです。医師は3Kの仕事
      です。私の心臓の主治医(40代)は、超ブラック職業が勤務医だと言い、愚痴を言います。下手したら2分治療ではい
      次です。救急もあるし、カラダを休める時間がないと。カテーテルもする医師だから手術室に入るし。

  2. 小説の主人公は影がある人物として扱われます。大抵は訳アリのシンデレラ・ボーイだったりしますね。今はなき親戚の叔父さんは,みなし子で,幼少期を田舎の親戚で育てられました。中学にも行けず,丁稚奉公に京都にやられたその先のお屋敷のお嬢さんに見初められ婿養子になってからは正にシンデレラ・ボーイで大きな会社の役員にまでのし上がりました。女好きの叔父さんでしたから,噂も多かったですが,人には生まれ持った才覚が有るもので,どう転ぶかわかりませんね。医者になりたくて勉強しても成れない人も居れば,目を掛けられて一気に上り詰める人も居ますね。運命としか言いようがありませんが,それも才能の内かも知れませんね。

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です