聖職者という語は・・・。
以前に読書の起源について書いたとき参考にした《テキストのぶどう畑》でイヴァン・イリッチが《聖職者という語は、ギリシャ語の(抽選)あるいは(選択)にあたる語に由来する。紀元2世紀以来、世俗の人間と聖職者の間には、常にはっきりした区別があった。・・・・・聖職者という語には、階級意識とエリート意識とが分かちがたく結びついている。》(同書87p)
さらに聖職者は男で7歳から修道士になって入るのが通例。男・聖職者・聖書・エリート意識・選民意識・文字の独占。神の代理人として御託宣を垂れる人々。そして文字を解さない人々を下に見る。3世紀から11世紀まで連綿とヨーロッパで続いてきた修道院。どこまでいっても修道院の内側で、権威が保持されて、権力が持たれて、一般大衆(老若男女、修道士や尼僧からなる文字の知識のない人々)との断絶を意図されてきた長い歴史がある。《文字》という言葉を《法律》と言い換えたり《医学用語》と言い換えたり《原子力用語》や《放射能用語》と入れ替えたら現代でも通じる論理である。
基本は文字の独占から来る権力である。それを修道院の外側の人々に向けて書いたのがユーグの《学習論》である。読書の勧めである。何を読むか、もちろん聖書であるが、真剣な読書を求めた。これは内側の人間にとっては脅威である。ラテン語を独占し、下々はただ聞くだけ、自分たちの言うことを聞けの姿勢であったものが、修道院の外側でひょっとしたら自分たち以上に真剣に奥深く、日常を働きながら、暮らしながら聖書の理解度を深める人間が出てくるかもしれない、既得権が脅かされると感じてもおかしくない。
ユーグはなんとなくその前触れを12世紀に書いた《学習論》で述べている。読書は報酬を期待しない書物との自由な交流で、普遍的な学習として提案している。すでに12世紀に恐るべき本が出ていたのである。それから400年、宗教改革が出てくる下地(カトリックの聖職者の腐敗)が12世紀には予見されていた。大学の中でも大企業の中でも官僚組織の中でも宗教団体でも、あらゆる人間が集まり作る組織にはびこる《腐敗》の内容をよくよく観察してみると、無償の行為なく自分のためだけにする行為・決断が横行していることに気付くはず。