誰からも見られない。
12月30日は、いつも誰かに見られている話であったが、偶然、今日の朝日新聞一面が真逆のたった一人の島民(85歳)が島を離れて、とうとう無人島になってしまった話が書かれてあった。「去りゆくひと 死んでいく島」。岡山県の黒島。本州から1.5キロ離れた島だ。記事には「有人離島」が国内に255島あって、30年経過すればその1割は無人になる可能性がある。先月、私も元産炭地をバスで巡って、寂しくなってしまったから、こういう記事にカラダが反応する。監視カメラは都会や人の密集する場所に置かれていて、そもそも人がいるところの問題であって、人の少ない過疎のさらに過疎の地域では、監視カメラは全く必要がない。あるとしたら動物や鳥の観察をするための監視カメラ(ここで赤外線カメラは有効に活用される)だ。ヒグマが横断していく生態を監視カメラで観察できる。電気は太陽電池から取れれば長く使える。自宅にある地球儀を見ていて、「誰からも見られない地域が圧倒的な面積で」「誰からも見られる場所が極端に少ない」ことがわかる。砂漠や山岳地帯や南極や北極、シベリア、アフリカ、南米、アメリカにも誰からも見られない地域はわんさかあるだろう。GPSがあるから天空からカメラで撮影はできるが、自然発火の山火事の場所特定にカメラは有効活用される。別に人権の問題は生じない。ブログにしても読んでいる人の多くは都市に住む人たちで(私のブログに限らないけれども)反応も都市的だ。都市的という意味は人に囲まれて(家族や仕事や会社)生きていることで、「誰もいない」ところで生きてはいない。朝日の記事では先祖の墓や神社を守る意思を固めた最後の住民であったが、年齢的にそれを守ることができず無念の離島であった。似たようなことで、小学校の閉校がある。1クラスに学年全員を教える教師、そういう職業に実はあこがれていた筆者。遊びながら学ばせる理想の教育ができそうだと思っていた。閉校のニュースを見てすぐに私は目がうるうるする。倒産のニュースもだめだ。亡くなる、滅びる、閉めるという動詞が付くといけない。心身がぐらっとくるからだ。「誰からも見られない」というのもその類の言葉である。監視カメラがない代わりに、しかし、先祖であったり、あなたの信じる神であったり、遠くに住む子供や孫であったりするから「誰かから見られている」のである。そう思いたい記事であった。12月31日、大みそか。最後のブログであった。1年間、愛読、ありがとうございました。来年もよろしく。
坊主の孫。
清水寺の年中行事でも書かれた「災」で象徴されるように、今年ほど災いが集中した年も珍しかったですね。特に北海道に住む我々はいろんな意味で国からは監視され見られてはいるけれど、大抵の道民は見放されているとも言えるような一年でした。少なくとも無人島では無いので、これからは国に頼らずとも道内の隅々まで災いの無い暮らしやすい豊かな北海道にして行きたいものですね。
今年も一年間いろんなお話を提供していただきありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。良いお年を。
seto
1年の長きにわたり、貴重なコメントいただきブログ継続のエネルギーにさせていただきました。ありがとうございました。北海道の経済的な自立ですが、まだまだ税金(開発庁や自治体発注仕事)に頼ってるところ多いですね。開発予算が増えたといってますが、土木工事中心の選挙目当て。せっかく観光で潤うと思った矢先のブラックアウト。先日、ホテル経営者と話して『来年は、がんばるぞ』と宣言してました。70歳を過ぎて会長として指揮しています。
昔の少年。
来年5月から元号が新しくなるそうですが、書類にはM、T、S、H、とアルファベットで省略された生年月日記入欄がありますね。今度の新しい元号は、これらにダブらないアルファベットの省略も念頭に入れて考えられているのでしょうね。これまでは古代中国の漢詩や諺の四文字熟語などから二文字を抜粋して元号としていましたから、その流れは変わらないとは思いますが、アルファベットの省略記号から考えるに、Aか?Bか?Dか?Eか?Gか?Kか?Wか?Yか?の中のどれかでしょうね。父親が明治、大正、昭和、平成と4つの時代を生きたと驚いていたのですが、新元号に成れば、何と私たちも、間もなく三つの時代を生きる事になりますね。新年は良い年になりますように。今年もお世話になりました。来年もどうぞよろしく。
seto
年号はいつも特定の学者たちが決めていますから。国文学や漢文の素養のある(理屈がつけられる)人たちですが、天皇の交代と年号を変える習慣はいつから始まってるのか調べてみると面白い。災害が多くて、疫病が蔓延したりして年号を変えたこともあったと思いますよ。公文書は年号がまず書かれますから、めんどうな習慣です。新天皇も西暦でいいじゃないかと言うかもしれませんが、長男にしろ次男にしろ自由な発言をたくさんしているみたいで、平成天皇も自分の言葉を持っていて、被災地へ真っ先に行き、慰め、南の島で戦死した慰霊に行ったり、大活躍でしたね。正直、見直しました。来年もよろしくお願いします。
ゼロ戦パイロットの弟。
世界がこれだけ進化していても、その文明は地球全体に行き渡っているわけでは無く、自分たちが暮らすエリアだけで物事を考え情報発信したり行動したりと、過疎地や、進化に取り残された場所のことなど全く考えずに我儘な言動や行為で世界を恐怖に陥れたり、地球を汚したりする事が目に余る時代ですね。悲惨な戦争も経験者が年々少なくなって、本当の恐ろしさを知らないアニメ世代やTVゲーム世代などが、殺戮ゲームを楽しんでいるのを見て恐ろしくなります。製作者の意図も理解できませんが、単なるゲーム、単なるアニメ、単なる動画とは言え、世の中全体が平和ボケなのか?忌まわしい戦争を娯楽の材料に使い過ぎの感がありますね。サイバー攻撃や、核ミサイルや衛星での宇宙戦争など、時代は大きく変わったものの、人類の頭脳は余り進化していないようです。手段は変わっても同じ過ちを犯しかねない世界各国のリーダーたちも今やアニメ世代、ゲーム世代なのでしょうか?私たちに多くの恵みを与えてくれる地球も宇宙も、これ以上汚さないで欲しいと願いたいですね。全ての人々が安心して暮らせますように。
seto
まったく同感です。現代は『退屈』がキーワードではないかと筆者は考えてます。老人は『退屈だから朝から晩までテレビを見る』熱血サラリーマンも居酒屋で退屈が来ないよう人事や同僚・上司の悪口をえさに怪気炎。若者もできるだけお金使わず、スマホでゲームやラインチェックでコメント遊び。しかし、この『退屈』は次の発明をも生んでいるので、あながちマイナスでもないですが。パスカルは人間のすることは『どうやってこの退屈(アンニュイ)から逃れるか』だってパンセに書いてるし、『退屈の倫理学』という國分さんの著作もあるほどです。だから負債や子育て義務など、負荷のかかった人生のほうがイキイキしているかもしれません。私がしないで誰がするという心もちですね。
ホランペッター。
無人島も過疎化も高齢化社会と一極集中型社会の産物でしょうね。これだけインターネットなど通信手段が発達しているのですから世界中、全国津々浦々まで情報伝達や情報交換も十分可能ですね。でも、しかし都会に群れたがるのはなぜでしょう。官民問わず中枢機関が都会にある事や人のふれあいでの安心感を求めているのでしょうね。高齢化と医療機関は密接な関係ですから、これらも手伝って都会の方が安心できるのでしょう。現実に起こっている離島や過疎地も放置するだけでは無く、活用方法をもっと真剣に考え直すべき時代かも知れませんね。新年は新次代へのスタートになってほしいですね。
seto
都会の人口集中は、ローマ時代でいえば公衆浴場に市民が集ったような『浴場化』かもしれません。こんなこと誰も言ってません。私の父が国鉄勤務のとき無料で入れるお風呂がありました。地下歩行空間を歩いていて、ふと、ここは無料か?歩いて、商店をのぞいて、知り合いと会って立ち話。町全体が娯楽施設、大浴場かもしれない。たとえが不謹慎かもしれませんが。テレビ局は災害でもない限り、娯楽の殿堂ですからね。日本全体を風呂場にたとえてみると面白いかも。山崎マリさんのお風呂の映画ありましたが、あれはローマ時代の人が日本の銭湯にやってくる話ですが、私はそんな遠慮はしないで、国そのもを浴場に見立てるすとーりーですね。番台に誰が立つかだけの話です。ことしもよろしく。