保坂正康著『昭和史七つの謎』に『北海道社会主義人民共和国』成立の可能性について書かれていた。(講談社文庫100pから)東北の一部も含めて『東日本人民共和国』成立の可能性さえあった。

敗戦はご存知のように8月14日午前中の御前会議でポツダム宣言受諾を決め、連合国にその日の夜に打電した。アメリカをはじめ連合国は8月15日をもって日本軍への戦闘行為を止めるよう命じた。しかし、ソ連は日本軍は各地で抵抗、戦闘行為を止めておらず、戦争は継続すると宣言。旧満州国で8月15日以降もソ連の攻撃は続いた。ソ連はこの時点では、千島列島や南カラフト全土には侵入しておらず、16日には樺太防衛に当たっていた日本軍と戦闘に入り、千島列島を含めて占領するよう極東ソ連軍最高司令官から命じられていた。

さらに9月1日までに北海道の道北部分(留萌と釧路を結ぶ北部)を占領するために上陸部隊も用意されていたのである。もし、これが現実化していれば、ドイツや朝鮮とベトナムと同じような分断国家に日本もなっていたという史実がある。8月25日には樺太全土を制圧、28日はエトロフ島に上陸。9月1日は国後・色丹に上陸開始である。9月4日・5日は歯舞諸島制圧である。

私たちの歴史理解では広島&長崎の原爆投下で、太平洋戦争はすべて終わったように錯覚をしているが、満州や樺太、国後、択捉、北海道については当時スターリンの野望はまだ生きていた。9月2日に有名なミズリー号で降伏文書の調印式が行われたが、極東ソ連軍は以降も軍事行動を起こしている。スターリンは極東ソ連軍最高司令官へ8月15日以降も、軍事行動を指示していたが、ほかの連合国との対立の激化を予想をして断念する。

その代り、「日本軍のロシア革命後のシベリア出兵に対する報復も意味をこめて北海道を占領をしたい」気持ちがあったのある。トルーマン大統領は「千島列島の領有は認めるが、北海道への占領は許せない」と返信した。トルーマンはドイツと違い、日本占領についてはソ連の役割は低いと判断をしていたのである。ソ連のかけこみ参戦についての判断なのだ。

しかし、スターリンは8月22日回答に不満を感じつつも北海道占領を保留をさせた。そのかわり、ソ連は「極東に滞在している日本人を1000人単位でシベリアに送り込め」と命じられて、関東軍60万人がこの日以降、次々とシベリアに送り込められることになる。本来ならポツダム宣言に基づけば、兵士は日本へ返さなければいけないが、北海道占領を諦めた代償としてシベリア送りが始まったとこの本では書かれてある。そしてシベリア開発をさせて、思想も赤化させて日本へ送り込み、後々、社会主義化させようとした。

筆者が衝撃を受けたのは、元々、日本軍の徹底抗戦を唱える軍人がまだまだたくさんいたことで、彼らはソ連の軍隊を利用してまでも連合国と闘い続ける意図を持っていたことで、その兵士として、極東に残した関東軍も民間人もどこまでも利用しようと考えていたことである。そのためにソ連軍も捕虜への思想洗脳も激しく、収容所の中での日本人同士の対立もたくさん発生している。「ソ連、万歳!」と叫ぶシベリア抑留者も多かった。若槻康雄「シベリア捕虜収容所(上・下)」からの孫引きであるが「思想の独善を盲信する権力の恐ろしい爪痕とともに、日本人の無気力、非良心、便乗主義、裏切り、破廉恥などの醜い屍が累々と横たわるのを見るであろう」。

「スターリン万歳!」を叫ぶ日本人もいた。しかし、筆者として2018年5月、温かな書斎で、いかに残酷な言葉が書かれている本を読みながら、文明の利器のパソコンでブログを書こうと、収容所で寝泊まりをして何年も重労働をしている人たちには何事も言えない。ある意味、彼らは日本国から棄民されていたひとたちかもしれない。大本営の朝枝参謀が個人的とはいえソ連側に提出した文書を引用してブログを終える。シベリアに1000人単位の関東軍を送る決定をした後のことである。今後の大本営朝枝参謀の考え。処置と題する文書である。

「内地における食料事情及び思想経済事情から考えて、既定方針通り、大陸方面においては在留邦人及び武装解除後の軍人はソ連の庇護のもとに満州や朝鮮に土着せしめて生活を営むごとくソ連側に依頼するを可とする」。(同書116p)さらに「満州と朝鮮土着する者は日本国籍を離れるも支障なきものとする」。朝枝は大本営で戦後処理を行っていた重要人物なのである。

国民に愛情を示さない国、簡単に国民を捨てる国、沖縄においても、福島においても、東北震災においても、とにかく弱い人間を助けない歴史は戦前から今日まで、そしてこれからも続く気がする。夢を求めて南米へ渡った人たちもいた。現代の棄民は老人に対してであることは言うまでもない。

  1. ゼロ戦パイロットの弟。

    過去の歴史は書籍でしか判りませんが、僕が北海道に住み着いて直ぐに手に取ったのが北方領土の書籍でした。住むからには北海道のこれまでの歴史や言語を知るためでしたが、戦争当時のソ連の行動には疑問と憤りを感じたものでした。今も延々と続いている北方領土返還問題ですが、これほど進展の無い交渉は有りませんね。戦争の産物とは言え、元島民の方々には納得が行かないのは当然でしょう。北海道そのものも危なかったわけですが、元島民の皆さんには申し訳ないのですが、戦争に至った日本にも責任の一端はありますね。今では戦争の形もすっかり変わりましたが、これからも無いとは断言できません。現に戦争さえ知らない若手国会議員が戦争発言をして大問題になっていますから。彼ら世代にはゲームとしかとらえていないのでしょうか。

    • 花咲ガニを扱う会社がありました。根室缶詰という会社でした。そこの社長さんが北方領土の4島のどこかに缶詰工場を持ってました。土地ももちろん持ってました。筆者に《領土が還ってきたら、あそこにホテルを建てるつもり。あなたそこの支配人をしない?》と聞かれました。《面白いアイディアですね》と私。《観光客たくさん、海産物と温泉目当てに来るでしょう》。25年前の話です。私の父が満鉄にいたので敗戦で日本に帰国したのですが、ロシア人に時計を略奪されたと言ってました。命あってのものだねですが。南満州鉄道総裁が岸信介で現安倍首相の尊敬する叔父ですね。A級戦犯になりましたが、巣鴨から出てきています。シベリアへ抑留され、シベリア開発に強制労働された元日本兵もたくさんいて凍土の中で死去した人も多い。画家の香月泰男、詩人石原吉郎、財界人瀬島龍三、ロシア文学者内村剛介さんもいます。北海道が二分されたら道産子の多くはシベリア開発に送られた可能性も大いに考えられます。スターリンへの一言(ソ連よ、もう戦争は終わった。ソ連に帰りなさい。》や連合国からの非難がなければ、歴史はどうなっていたかわかりません。あやういバランスの中でいまの自分がいるのだと思います。

  2. カザフスタンあたりでもソ連の捕虜として日本人が強制労働に就いていたそうです。ですからあの辺りの立派な建物の多くは、その人たちの手で作られたものばかりだそうです。レンガを焼いたり緻密な建築方法で妥協を許さない日本人気質で作られた建物は今でも健在で大地震でも倒壊を免れ避難所として使われているそうです。現地の人たちと日本人捕虜は親しく、陰でスターリンの悪口を言っていたようです。彼らは今も日本にあこがれ親日家が多いようです。ソ連の中でも北方領土問題に類似した問題は数多くあるのでしょうね。

    • シベリア抑留者のロシア国内での死亡地点(100人以上)の都市を調べてみました。(参考シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界 立花隆著232p~235p)ではほぼ全ロシアの主要都市全部で死んでいました。実際はその何倍もいたわけですね。モスクワでも捕虜が連れて行かれてました。戦争は何でもありの世界で、奴隷として最小限死なない程度の食事を与えて、一番きつい労働をさせる、文句を言わせなく、死んだら同じ日本人に埋めさせる。シベリア流しは昔から天然資源豊富な開発のために政治犯、囚人も送られてました。ドストエフスキーもシベリアへ送られました。香月泰男の絵画を見ると日本兵が書かれています。

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