とんでもない仮説であるが、人間は失敗するように選択し続けているのでは?
私たちのいろいろな岐路で・曲がり角でAの道を行くか、Bの道を進むか、はたまたCのほうがいいかなと思って選ぶのは『失敗の道』ではないか。『本来はAの道を行きたがったがBを選択した』という単純な話(仮説)である。
他人とざっくばらんに話されることではなくて、誰もいないところで心の深奥を覗きこむと、学校の選択や配偶者の選択、職業の選択を考えて、実は本来的な希望ではなくて、別な要素(両親からのアドバイス、先輩から強く勧められた、友人がいいと言っていた配偶者だ、)が大いに働いて、その結果、選んだのはいいいが、30年経過して『失敗するような選択』を私たちは人生でし続けてきた。そんな真逆な人生観を、最近、私は考えているのである。
企業においても『行かなければいいものを、あっちへ走って失敗、倒産』も中身を見ると、経営者の頭の中にあるものが見えれば(可視化できれば)、怖い話ではあるが失敗して転ぶような被虐的な心理が経営者の中にあるのではないかと思う。この考え方は、ダーウィンの生物進化論を社会に適用した社会ダーウィニズムと反対の考え方である。経営者はどこかで、「この会社を潰してやれ、自分がトップを去ることが決まれば壊してやれ」と思う事例を何度も見ている私だし、フロイトの心理学で言う(死への本能)が働いているのではないだろうか。
60歳を過ぎて、いろんな人と会話するうちに『司法試験に落ちて公務員になったとか』『新聞社の記者志望であったが、実力的に安全な業務に入ったとか』『勤め先は決まっていたが、父親が急死して仕方なく建設会社を継いだ』とか『結婚を約束した女性がいたが彼女の両親から猛反対されて諦めざるおえなかった』とか、私たちの人生は自分では選んでいないというのが真相で、運よく選ばれた人生、ラッキーが殆どで、就職にしても親のコネで市役所やJR、警察、様々な社団法人に勤める人も多いが、果たして本人の希望かどうかは疑わしい。食えれば何でもいい、手段はどうでもいいといえば何をかいわんやであるが。
大都市で実施する大きな税金をばら撒くオリンピックはじめイベントは実は、参勤交代を思い起こせばわかるけれど、その国の国力を減退する方向にしか作用しないと思ったほうがいい。新幹線は東京五輪がきっかけと言うが、別にオリンピックがなくとも作れるものは作ればいいだけで、技術力もあり世界銀行から借金して作った。リオ五輪の後、沢山の負債で苦しんでいるブラジル。西武のための長野オリンピック競技場跡地利用もリュージュコースは廃止の方向。ゼネコンとホテルだけが喜び子どもたちに負債を残すことが決まっているのである。なんだか昨日の東京オリンピック廃止をの続編のようだが、人間は過去に学ばない。必ず、失敗の選択をすると思って何もしないほうがいい。
東京へこんなに一極集中して、その後どうなるか考えている人はいるのだろうか?北海道の片田舎から見て、東京は都民全員でお風呂に入ってる民に見える。「いい湯だな・・・いい情報が入るわ・・・」しかし、こういう状況が一番危険なことを知って欲しい。集中は災害に超弱いのだということを。一番は水や食べ物、冬であれば寒さ対策、車や電車というインフラでの移動ができなくなるとどうなるか。考えるだけでぞっとする。もっともっと分散して住まないといまに大変な事態になる。
考えてみると、一番「失敗するように選択し続けているのは、この国の国民や為政者の都市づくり、一極集中で壊滅的な東京の街づくりではないか」と夢想する。「興隆の原因は没落の原因と同じである」(塩野七生)とりとめのないブログになってしまった。
坊主の孫。
選んでしまったものは、取り返しがつかないですね。ですから選ぶ前に何度も検討すべきなのでしょうね。日本列島改造論でもないですが、決断力は評価されましたが、勢いに乗って一気に開発した土木関連事業も今になれば老朽化で役にたつどころか大きな負債となりました。メンテナンスまでは考えて居なかった?と言うより、わかって居たけど後世がなんとかするだろう的発想だったのでしょう。自分たちの時代さえ良ければの考えですね。つまり当時は大成功と思われた事も時代が変われば大失敗だったと気づく事が余りにも多いですね。作り過ぎも、一極集中し過ぎも、取り返しがつかないのです。
seto
選ぶことは何かを必ず捨てることにつながります。ひとりの女性と結婚することは、残りの40億人の女性との結婚可能性を離婚でもしないと捨てることになります。3丁目の夕日にも電気冷蔵庫が入って、氷屋さんが廃業、パソコンが入って写植屋さんは店終い、NETTVがもっと普及すれば、局と広告主が直接やりとりになって代理店飛ばしを始めます。スマホやパソコンやロボットの次にどんな時代が来るのか、たくさんの人が世界で挑んでいます。いったい、どういう社会を構築できるか。コロナと共生しながら新しい生き方(死に方)に通じると思いますがいかがでしょうか?私はウルトラアナログ時代が再来すると読んでます。それを支えるのがデジタルというわけです。