処女をめぐって。聖書の誤訳とリチャード・ドーキンス。

誰が書いたか忘れたが(最近、物忘れ多い)聖書の中にある処女性の話。「私はギリシャ語約の旧約聖書をつくった学者たちが(若い女)というヘブライ語を(処女)というギリシャ語に翻訳して・・・見よ、処女ははらみ男児を産まん・・・という語を付け加えたとき、彼ら翻訳者たちは大変なことをスタートさせたといえる」。ヘブライ語のままなら「見よ、若い女ははらみ、男児を産まん」という平凡な表現になってしまう。誤訳ならば、無意識の誤訳なのか、知っていての作為的な誤訳なのか?現代でも聖書について、またマリアの処女懐胎について論争は決着を見ない。しかし、回答が誤訳だとしたらすっきりする。
いま読んでいる長い本、リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子」(40周年記念版)のはじめに、遺伝子の自己複製(コピー)について書かれた中に、「自己複製から逸脱するケースもある」とのことで、たとえを聖書を写本する人の写し間違いにたとえてこんな文章を見つけた。(61p)「彼らがみな一つの原本から写したのであれば内容がひどく曲解されることはなかったかもしれないが、写本からコピーし、そのコピーからコピーすることを繰り返すならば、誤りは累積し始め、深刻な事態に陥る。・・・・・ギリシャ語訳旧約聖書を作った学者たちが(若い女)というヘブライ語を(処女)というギリシャ語に誤訳し、「見よ、処女ははらみ男児を産まん」という預言を付け加えた時、彼らはあるたいへんなことをスタートさせたと言えよう。・・・ある誤りが生じることは、生命の前進的進化にとって欠かせないことだった」。
なんと最初に引用した筆者の文章(どの本かわからないのが難点)にうり二つ。私はドーキンスの原本を読むのは今回が初めてで、ドーキンスの文章を引用した人の文章を私がさらに引用して書いたような気がする。「人間は自己複製遺伝子の乗り物(ビークル)に過ぎない」という強烈なワンフレーズに魅了されて、実は原本を筆者は読んでいない。しかし、その中に聖書を複写する修道士たちが間違ってある語をコピーすることで、その後の聖書解釈が変わることと、生物のコピーも進化が変わることを述べるくだりを原本で発見して感慨深いものがあった。
ときどき新聞やテレビのコメンテーターが話すのは、誰かのコピー、政治家の語る言葉もコピー、独裁者の言動もコピーではないかと感じることもある。SNSで蔓延する言語も突き詰めれば、誰かに言わせられれている(それこそ自己複製遺伝子のような)内容のような気もする。しかし、一方、コピーを日本語の「剽窃」と変えるとどうだろうか。現代人は、コピーや剽窃の世界にどっぷり私を含めて浸かってる気がするのである。生まれ育った家の両親からの言葉、教師の言葉、親しい友人の言葉、読んだ本の1行、愛する人からの一言。そういう言葉がある時代、ある環境が変化しても十分通用するのなら、コピーは有用であると思いたい。
しかし、これでは「処女」と「若い女性」の聖書解釈はどうなるのか?間違った翻訳であっても後世に有用な働きをしたのならOKとするのかどうなのか。

坊主の孫。
聖女マリア様は俗にいう処女で子イエスを授かったと言われていますよね。想像妊娠説なんでしょうか?。神に近い存在の人は男女間の営みは禁止なのでしょうか。酒はダメ、濃厚接触恋愛はダメとは、まるでコロナ禍そのものですね。
seto
フィクションで生きているとすれば、わからないわけではないですが、生身の話ですからね。アブラムシなら単為生殖もありますが、哺乳類は想像妊娠ないですね。ネコや犬にはしまし、想像妊娠でオッパイが出る現象はありますが。このアナロジーなのでしょうかね。今回のテーマは誤訳でこういう話は山のように探せばあるかもしれません。意図的な改ざんで、意味をあいまいにします。値上げを「改定」と言ったりします。価値中立的な方向へもっていこうとしますね。体育会系でも「かわいがる」という単語もあります。五輪もメダルが欲しい人にあげて帰ってもらったらいいですね。オリンピック開く必要ないですよ。IOC早く解体してほしいです。