背負う荷物を責任ある仕事や子供の教育や住宅ローン返済義務、さらに親の介護や配偶者の病気やあれこれの配慮などを考えると、ある人が『生き続けるのは、すごい事業だ』と言ったのもうなづける。そのときは無我夢中で生きてきて、山を越えて後ろを振り返ると、ここまでこれたのは自分たちの若さの勢いだったり、親のお蔭であったりする。多くは実力ではなくて運や偶然の上に努力が加わってるような気がする。

しかし、終わってみると(まだ何があるかわからないが)背中が軽くなったみたいで、貧乏性な私はまた小さくてもいいから小荷物を欲しがっている。小荷物の中身は一体なんだろう。旅に行きたいわけでもなく、ぜいたく品が欲しいわけでもない。酒も飲まず、おしゃべりをする知人が多いから知的な興奮の時間はある。友人から『サリエルの命題面白いよ!』とメールが入れば、返信で『須賀敦子さんのコルシア書店の仲間たち・・素晴らしい日本語で書かれているよ』と推薦する。

ブログテーマに戻れば、相手が重過ぎる荷を背負っていたら、少しこちらが持ってあげるくらいの、言葉だけかもしれないがしようとしている。何でも丸投げだけはしないよう気をつかっているが、それは他人が判断すること、私にはわからない領分だ。なぜこんなことを書くかといえば、重過ぎる荷物にあえいで生きる人たちが私の周りに多過ぎるからだ。もう少し背負う荷物が公平になるような社会の仕組みが円滑に機能しないと相当にヤバイ社会に突入していくぞという直観である。それは自分たちの世代を中心に、相当生きにくい世間をつくってしまったことでもあるという反省だ。生きにくい世間とは、目の前の他人を信頼しないで生きる人々が増えることでもある。それは目に見える人々から目に見えない人々へ、想像力を働かせて生きることでもある。難しいことであるが、自分の足元を掘り下げればいくらでも見えてくる。そのためには、いっときでもいい、自分を捨てる工夫、自我意識を遠方に押しやること、『私が、私が、俺が、俺が・・』から『自分のことは後にする』生き方の模索である。肉料理を前にして、我先に食べる私だから、こんなエラソーなことを実は言えないはずが、ブログなら書いてしまう自己矛盾。情けない。

  1. 若い時には気づかず、やろうとしなかった事など、今になってお互いようやく気付き始めましたね。少し遅い感も有りますが、全く気付かず一生を終えるより少しでも何かの役に立てればいいですね。相手が気分良ければ、こちらの気分も良くなりますから、譲り合い精神で穏やかに過ごしたいものですね。

    • 気づいた時には、親はいないです。父親は毛ガニが大好きでした。正月、江別のダイエーで3匹1000円を買いました。喜んで食べ始めて私に「このカニ、身がないぞ。スカスカだ」と言われたとき、1匹1000円を選択しておけばと後悔しています。くだらない話ですが、いつまでも残る話です。思い切って美味しいものを買って食べようと反省してます。

  2. それでも、親孝行に違いはありません。カニの身は少なくても気持ちだけは一杯詰まっていたに違いありませんね。

    • こういう後悔話はいつまでも残ってるものです。自分の娘や息子が同じように何か親に忘れていることはないか、精査してほしいものですが、そういう打算は嫌らしいですね、きっと。

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