自分の住んでいる町の特徴や雰囲気は、よそから移り住んでくるほうがよく見える。

家風や校風、社風や県民性とか、方言などだが外から感じられるあれこれも多い。

北海道を初めて出たのが18歳、青森から寝台特急大阪行き「白鳥」。青森市内は

民家はまだトタン屋根。しばらくすると瓦屋根の家が続く。これがずっと金沢まで続いた。

「同じ日本と思えないなあ」と内心思った。そのときの違和感はいまもある。

考えてみると、家風もそれぞれの親のしつけや暮らし方・会話の多さ少なさでずいぶん違う。

朝からクッキーを焼くお母さんがいる同級生が羨ましかったが、新幹線の技術者の転勤族だ。

上品なしゃべり方できれいなお母さんだ。同級生は高校入試で全道一番の成績で新聞を飾った。

彼と3年間、中学へ通ったので私も鼻が高かった。中学は、親分肌が弱い者を守っていた。全体に

そういう校風がみなぎっていた。生活レベルが均一でスマホや携帯もなく面と向かっておしゃべりばかり。

ところが、働きだして、前面に出てきたのが社風だ。27歳で働き始めた私なので奥手の社会人。

最初の会社が超超営業、がんがん営業飛び込みをやらされた。婚約者ができて動き回って稼いだ。

いまをときめく「ニトリ家具」のライバル家具屋「田村家具」のオープンも出がけた。飛び込みで獲得した

クライアントでいまは倒産している。

気違いじみた荒々しい社風だ。それに反してテレビ局や新聞社社員の穏やかなことといったら・・。

金払いもいいし、ランチでも必ず奢ってくれる。遅くまで一緒に仕事をするとタクシーチケットまで。

夢のような暮らしを彼らはしていた、不満はただ出世するかしないかだ。

ところが、私の3回目の転職先は新聞社系の広告代理店。新聞全盛、折込チラシがどっさり入る時代だ。

黙っていても儲かる。それを社員に分配するからボーナスもいい。残業は青天井。制作室はインチキ申告。

高給寿司屋、ススキノ居酒屋、ホテルの3か所はツケが利く。しかし、この会社しか知らない人にはいつのまにか怠

け癖が身についてしまう。外から見て羨ましがられるのはどうでもよく、隣の新聞社の給与と自分を比べる人間が

不平不満をたらたら。そういう声の大きな怠け者がいると会社全体でまじめに仕事をする人が少なくなる。あるとき

創業社長が不平不満たらたら分子を「あいつたちを社員にしたのが間違っていた」と告白したが時すでに遅し。

私は彼らから距離を取らないと自分がダメになると必死だった。この程度の仕事でもらえるいい給与に感謝して仕事

しないと罰が当たると思った。それを支えたのが27歳で初めて外歩きをしたときの体験であった。若いときに苦労

をすると必ず生きるときがある。逆に若いときに楽をしていい暮らしをし続けると未来、ロクなことがない。

  1. 私は弟子入りの経験があります。当時は珍しかったデザインです。東京にも大阪にもデザインの専門学校も無く短大などのデザイン科程度でしたから、東京で住み込みバイトしながら通学の準備もしましたが、お金も無いし、東京行きを諦め、友人の大阪芸大卒のデザイナーの兄の紹介で或る大先生の門を叩いたのです。紹介してくれた友人の兄からの課題は自分のデザインを面接時に持参するようにとの事で早速梅田の画材店で絵の具と筆と画用紙を購入してアパートでレコードジャケットとデザイン文様作品の2点ほどを仕上げて持参しました大先生の第一声「下手クソだなぁ!」これで一貫の終わりか?と諦めていたら何と?「下手クソのところが気に入った!」と。「明日から来るように!」と。早速アトリエの有る池田市内で住まい探しをしてお婆さんの一人住まいの家の二階に間借りする事にして、朝からアトリエに通いました。仕事と言えば持参したスケッチブックに毎日毎日庭のバラや静物の鉛筆画を描く事でした。まるで学校に通っているみたいでした。そんな或る日、大先生が「レンガを描いてみろ」と。次に「消しゴムを描いてみろ!」どうやら光の当り具合と質感の違いを描線の違いで表現しなさいと言う事らしく、理解して仕上げると、ようやく仕事らしき事をさせてくれました。言葉少なく、一言一言が的確な指摘なので緊張の毎日でした。そのうちデザイン画を手掛けられる様になった頃、カネボウの本社の意匠部にもデザイン打ち合わせや作品提出で頻繁に出入りしました。しかし暫くして私の勝手で違うジャンルのデザインを志向したい旨を伝えるとアッサリ「いいよ!」と言われました。そこからが私の本当の苦悩が始まったのです。札幌に移住してフリーランスで暫く働きましたが、営業と制作をこなすには勉強どころか寝る暇も無く、サラリーマンになろうか?と思ったのも、そんな貧乏生活から抜け出したかったからでした。でもそんな苦労の甲斐あってか広告代理店での面接では今度は、持参した実際の作品が私を助けてくれました。次の転職時にも同じでした。サラリーマンも30年程でまた自営に戻ったりもしましたが、昔に比べ、いずれも厳しい時代になりましたね。

    • 終わってみて、振り返る苦労は、明日からどうしようともがく時代と全然違いますよね。「もうあの時代へは戻りたくない」と思う一方、あの苦労があって、次の自分を助けてくれた。そう思いますね。貧乏はみんな共通で私も18歳から新聞配達をしていました。1年間、一度も休みませんでした。昨年、ワクチン集団接種の手伝い(5月から11月)で約50人中、一度も休まなかったのは私一人でした。50年経過しても仕事が始まると休めない人なのかも。ブログを始めたら止められないのもどこか相通じるとおみます。さように若いときの癖は年齢を重ねてもいつまでも残る。基本、貧乏性なんだと思います。

  2. 北海道に移住後、千歳の友人を姉の住む足立区は西新井神社に連れて行くと大喜びでしたね。石垣や石段や参道の駄菓子屋が珍しいと言うのです。私には何だかさっぱり理解できませんでしたが、確かに私自身も厳冬の北海道の第一印象はヨーロッパ?かアメリカ?と感じたものでした。

    • そうなんです、ここはアメリカかヨーロッパです。そう思うとわかりやすいです。大陸から引き揚げてきた人たちも、そこで生まれ育った人は日本に帰国してたくさん違和感を覚えたと言います。安倍公房や道内生まれの作家。池澤夏樹さんもね。視線が対利器的になります。アメリカは鎖国主義ですから、北海道のほうが大陸的ではないかと思います。歌手の玉置浩二や中島みゆきの詩も雄大で空の青い空気を感じますね。足寄の男も。

  3. 過去を断ち切るには移住が一番です。別に過去が悲惨とか過去に汚点が有る訳ではありませんが、強いて言えば失恋や騙されたり友人との蟠りなど嫌な思いの一つ二つはありました。そんなわずらわしさを一新するには居場所を変えるのが一番ですね。心機一転と言うヤツですね。その点では北海道は最高の土地柄です。第一、本州のような古い慣習もありませんからね。今でこそコロナ禍で大袈裟な集まりはありませんが、それ以前も葬儀も結婚式も簡素化で気が楽でしたね。

    • 移住するにはそれなりのわけがあって、明治のころの北海道移住にもいろいろあったでしょうね。食えないから移住するのも多かったと思いますが、自分の理想を実現するために移住する人もいました。陸別町の恩師と言われる人は70歳を過ぎて移住。司馬遼太郎の本に何回も感動的に取り上げていました。同じ場所にいるとそこの習慣・過去に捕らわれる、そういう意味では官僚の世界は明治以来進歩してるのでしょうか?大変更するとは過去の役人に結果、恥をかかせることにもなりますね。東芝の粉飾決算も新しい社長が認めれば過去の社長は無能ということになります。北海道の割り切った冠婚葬祭ががいいのかどうかわかりませんが、安上がりであることは確かです。時間の拘束も少なくて済みます。今日明日と嫁ぎ先の大分県で娘が親族の葬儀に関わります。電話で話されると思いますが、苦労多いだろうと思います。何せ、自由人の道産子娘ですから。

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