「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」(小学館 池澤夏樹)で対談者の秋吉輝雄教授(ヘブライ語学者で日本聖書教会の聖書翻訳者)が「一神教、唯一神というのは、(自分たちにとっては)という条件をつけて考えない限りは、どうしても他者に対して(邪)の烙印を押すことになる。」(同著143P)。陥りがちなのは、善と悪、正統と異端、敵と味方などについて、一神教の立場から相手を断罪してしまうことだ。


21世紀に入って、古代エジプトから数えて約5000年、科学技術の進歩が、理性的な文明の進展があれば、いずれ「公平に分配されている人間の理性」(ルネ・デカルト)が働き、思考停止に陥りやすい宗教から脱した世界になるのではないかと期待された。が、現実はますます宗教的な勢力が数といい、暴力性といい、政治性といい、社会の前面に出てきた。


「宗教はアヘンだ」といったのはマルクスであったが、これは「事柄への断定的な物言いや」「相手を非難応酬するだけ」「従わないと殺すぞ」「相手に死ね」と言ってみたり、「問答無用、守れないなら帰れ」。「言うことを聞かないやつは首だ」という体裁の独裁思考の、教養程度が知れる輩の態度でしかない。説明や説得ではなくて、他者に対して「邪」印を押すことで自説を守る。余裕無き強迫観念と被害者意識に包まれた人の言動だ。


アメリカに限らず、この国の指導者も語彙(ボキャブラリー)の貧困な時代。貧困な語彙であるがゆえに他者への想像力を働かせる余裕がない。そういう意味で何度も言うが、現代は宗教の時代に逆戻りをしてしまった感が非常に強い。


学生時代、16世紀ヨーロッパの宗教戦争を少し勉強をしてきた者として、当時流行った「異端審問」(これは最終的にスペインで1820年の異端審問廃止令まで残る)。その時代のオーソリティーからみて「異なる人」へ断罪や追放をする。火あぶりやギロチンである。


現代を振り返れば、中国であれば法輪功の弾圧(虐殺)だし、チベット仏教者への同じく弾圧、西域に住むイスラム教徒弾圧・差別。ロシアもご存知のとおりチェチェン人の虐殺と彼らの報復、優しい包容力のある仏教徒と思ったら、ミャンマーの南部でイスラム教徒虐殺事件、日本でも科学や医学を勉強してきたオウム真理教徒たちが起こしたサリン事件。


シリアへはまともに普通の暮らしができないくらい破壊され尽くして、まだ無人機で爆撃を繰り返している。シリアは人類文化の発祥、誇り高い土地である。これらすべての事件に関わった人たちが(報復も含めて)、自分の信じる神や、教祖を「自分たちにとって」という但し書き(条件とブレーキ)を課せば、それこそ、今流行の「寛容な社会・世界」に変貌することなると思うのだ。他人へ価値観の強制をしない生き方だ。他国へも権力を行使しない。こういう理想的な姿なら、現実には争いが生じにくい。


この「自分たちにとって」というブレーキを、どんな場面でも使えるようになると無用な軋轢や戦は避けられるが、企業同士がライバルを見つけては他社の市場を荒らす、最終的には市場の独占を狙う、この資本主義がいつまで続くか危ういと思うがどうだろうか?オランダの東インド会社、イギリスの東インド会社に始まる株式会社。投資家(株主)を募って事業を運営する株式会社という形態がいつまで寿命があるのか。これに代わる何かがないのかどうか?共産主義がどこも特権的な官僚たちだけを跋扈させて失敗したわけであるが。


たくさんの動物や昆虫で、こんなに同種間で殺戮を行う動物としての人類はひょっとして、ある時点でDNA上に「残虐な遺伝子」が突然変異的に組み込まれてしまったようにも見えると考えるのは私だけだろうか?マザーテレサもいるのだけど。


このブレーキを自分自身にかける日常を習慣ができれば、私のブログで何度も話題にしている「キレる老人」「キレやすい脳」を「穏やかな脳」「相手を受け入れらるる脳」に変化できるかもしれない。冬道運転は早めのブレーキ、一神教も早めのブレーキをして欲しいものだ。ブレーキをかけないと相手に衝突する。

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