
ボランティアをしている市立図書館の不要本の白い箱に、私の興味をそそる本を発見するときがある。手塚治虫の漫画があると安く買う。妻が手塚治虫ファンということもある。漫画のタイトルは「肩書」
医師でもあるA国皇帝が、ブラック・ジャックの天才的な外科手術の腕をこの目で見たくて難病患者を連れて来日する。無事に手術が終わった後、二人はしんみりした言葉を交わす。もともと医師免許のないブラック・ジャックであるが「肩書ってやつがきらいでね」と言うとA国皇帝も「私も肩書がなかったら、どんなにらくだろうと、しょっちゅう 思いますよ」「第一、先生とももっと簡単に合えるだろうに・・・」(上記のマンガ447~448P)64歳と67歳で働いた会社で「好きな肩書をつけていいよ」と社長から言われて「営業担当」でいいよと2社とも通したことがある。小企業で営業の補助仕事だからこれでいいが、私としては中身で仕事をしたかったという自負もある。特にA国皇帝が、肩書がなかったら、どんなに楽だろうと言う感想はオードリーヘップバーンのローマの休日を思わせるが、仕事の責任の重さから言うと皇帝が重い、ロマンスではないのだから。
私の体験から言っても55歳から57歳で役職定年があり、給与から役職手当が外され、給与が下がり、部下もいなくなることがある。しかも元部下が自分の上司になるケースもある。もともと縦関係に鈍感な私なので、企業内の閉鎖空間に長い時間滞在せず、外回りを仕事にしていたからずいぶん嫌な思いもせず助かったところがある。30年勤めた広告代理店では、社長も「〇〇さん」で呼ぶ社風だから、ブラック・ジャックの発想に近いかも。
で、ブログで最後に言いたいのは何でも2世議員,2世芸能人、2世の経営者、2世秘書、いまは3世の人もいる。彼らの本音は「私も肩書がなかったら、どんなにらくだろう」かも。自由感の充実(どこを歩いても誰からも注目されない、見られない)を喪失している。さらに「自分がしたった事業や仕事が親のために制約される(楽ができるともいえる)」。しかし、首相の第一秘書に長男を入れたり、小さくは近所の酒屋で娘婿を後継者にしたり、ある坂問屋に突然、社長の長男が経理課長で入社したり、ミミズや女王バチ、スズメやカラスにはない相続は親子や親戚以外、どうも信用できない生物であるらしい。肩書がないと人間は生きていけないのだろうか?


肩書きは会社員の時には勝手につけられてしまいました。しかし自営の時には今度は自分で勝手に好きなようにつけました。代表であっても一営業マンでもあり、一制作マンでもあるので一人何役も担っていますから大変です。面倒だから名刺には何でもまとめると言う意味でコーディネーターにしています。肩書きを重んじる人もいますが、私のように何でも屋には余り関係ありませんね。感心したのは或る農家の社長さんからいただいた名刺の肩書きに『百姓』となっていたのには驚くと同時にその潔さに感心しました。私も『萬屋』にすべきかも。
人事は権力の源なので、それを振り回す快感はやめられないみたいです。大きな企業も小さな企業も同じです。肩書が給与と連動しているところがミソで、官僚は「この国をどうしていくか、どういう施策を実施して。未来の日本をつくる」ではなくて「どうやって出世していくか、天下り先でいい待遇を得られるか。あいつから嫌われると出世は危うい。どうにかゴマをすらないと」とか私の意地悪な予想ですがね。肩書が「百姓」。いいですね。最新の日本史学では「百姓」は「ひゃくしょう」ではなくて「ひやくせい」と呼んで百(たくさん)の姓(仕事の呼称)で、炭焼きや物を売ったり、山菜を取ったり、たくさんの生業をする人に読み替えられています。近所の農家を訪ねると大型機械は使う、農協と交渉する、バイトの主婦たちを使う、タブレッツト端末で天候やジャガイモの売値を調べる。私に「仕事を探したらキリがありません」ビニールハウスが15棟あるので収穫終わったアスパラガスを切る仕事もあります。農家も「萬屋」ですよ。私は「ブロガー」と言う名刺を持っています。先日、図書館司書に配りました。名誉教授という肩書がありますが、大学からは1円も出ませんが、これを利用して私立大学への就職、カルチャセンターで講師、TVや新聞へのコメント書いて儲ける仕組みですから「教授選挙」が激しくなるのもうなづけます。