老子の自由訳(2)加島祥造 「空っぽ」こそ役に立つ。
前回は老子の「リーダー論」でしたが(3月24日)、今回も加島祥造さんの自由訳で、表題の「空っぽ」こそ役に立つを紹介します。ちくま文庫「タオ」第11章です。
遊園地の
大きな観覧車を想像してくれたまえ。
たくさんのスポークが
輪の中心の轂(こしき)から出ているが
この中心の轂(こしき)は空っぽだ。だからそれは
数々のスポークを受け止め、
大きな観覧車を動かす軸になっている。
粘土をこねっくって
ひとつの器をつくるんだが、
器は、かならず
中がくりぬかれて空(うつろ)になっている。
この空(うつろ)の部分があってはじめて
器は役に立つ。
中がつまっていたら
何の役にも立ちやしない。
同じように、
どの家にも部屋があって
その部屋は、うつろな空間だ。
もし部屋が空(から)でなくて
ぎっしりつまっていたら
まるっきり使いものにならん。
うつろで空(あ)いていること、
それが家の有用性なのだ。
これで分かるように
私たちは物が役立つと思うけれど
じつは物の内側の、
何もない虚(きょ)のスペースこそ
本当に役に立っているのだ。
空白を嫌う新聞、沈黙の間を嫌うテレビ。疲れないだろうか?ひとりひとりは本当は静けさや平和を求めているのに、あわただしく走りまわっている。サラリーマン時代、内ポケットから手帳を出して、スクジュールを眺めて、「手帳が埋まっていないと落ち着かないんだよ」と言う役員がいた。私は多忙なのだ、この会社で重要人物なのだと自己納得する瞬間である。テレビを見ると、沈黙を嫌う集団の電気紙芝居に思えてくる。空白に暴力を加えているようにみえる。かつての自分もそうだったかもしれない。「暴力的な人は静かな死を迎えられない」。紀元前6世紀ころにいたとされる老子の言葉の加島祥造さんの自由訳でした。


アドマン。
テレビのボリュームをオフにして『ホッ!』とした事もしばしば。CMと関係の有る仕事をしている私ですらそうですから、皆んな同じ思いでは無いでしょうか。CMを挟んで始まるのがCM前の流れのクドイ重複説明。電波のムダ使いですし、CMのタイミングも
押し付けがましく、かえって反感さえ覚えます。それも全局が同じ手法の踏襲ですから、全く考えていません。他がやるからウチも同じく右ならえです。オリジナリティなど有りません。視聴者を軽く見過ぎているようにも感じます。改善を急がないと、ますますメディア離れは進み、自分で自分の首を絞める結果になりますね。
seto
テレビを見ないと精神の健康を保てます。TVCMやラジオCMの原稿を書いていた私が「広告嫌いに」なるのですから。ユーチューブもCM激増で番組はみづらい。電通がどんどん入れています。CMが入らないのは読書です。ここから時事ネタや歴史や思想が入ります。図書館の月刊誌や週刊誌もうるさくないので好きです。CMの音量が通常の番組音声より大きめに設定されて耳の悪い老人へ届くように塩梅されていますね。ほんとうるさいです。CMの量は決まった%しか入れられないはずですが、番宣入れるとオーバーしていると思いますが、ストップウォツチで暇なとき図ってみますわ。NHKも果たして必要かどうかですね。受信料を6000億円も集めて、さらに税金を投入して1万人の雇用をしています。これに関連会社(NHK文化センターや制作会社に天下りです)。昔のJALに似ています。給与高過ぎて、安給与の男と結婚なんかばからしくて独身女性が溢れていました。クローズアップ現代とか反骨ある番組を作り続ければいいものを、才能ある人間はどんどん辞めていきますね。