数学者森毅さんの本に書かれた京都
21世紀の日本は多民族国家に生まれ変わる・・と題した章に「では、日本は多民族国家になって困るか。いや困らぬ。なぜなら、それが日本の伝統だからだ。京都の成り立ちを考えてみればわかる。京都は千年ほど前は朝鮮系の渡来人の町だった。そこに天皇家が都を構えたに過ぎない。京都には5百年くらい前、中国人の僧侶によって建立された寺もたくさんある。
外国の人も文化も受け入れていたのが日本の伝統なのである。江戸時代にしても、鎖国をしていたとはいえ、実際は南蛮文化が次々と日本に入ってきていた。祇園祭だって南蛮ゆかりのものが多い。外国への門戸を閉ざしたのは、むしろ明治以降である。ルートが公然化した(お雇い外国人採用他・・筆者注)のとは裏腹に殻を固くした。」(森毅「大事な話)~みんなが忘れてしまった~124p 1992年)。
こういう大事な話は、たとえば日本の国歌「君が代」の起源が歌詞は古今和歌集の雅歌を原型とするが、「最初に曲をつけたのは、イギリス公使館にいた軍楽隊長ジョン・ウィリアムス・フェントンです。それが洋風の音階ではなじみが悪かったために、宮内庁の伶人によって改作され、それをドイツ人フランツ・エッケルトがアレンジした」(内田樹「日本辺境論」113p 2009年)。
「君が代」は3か国の人によって作られた話は、この本のページを読むまで筆者は知らなかったし、京都の町が千年前は、朝鮮系の渡来人の町だったという認識も森さんのこのページを開くまで知らなかった。朝鮮人と仲良く同居していたのだ。小学校の音楽教材にも日本史の1ページにきちんとこういうことが書かれてあるのだろうか寡聞にしてわからないが、私の受けた義務教育の中では記憶にない。
森さんは「本当に閉鎖的になったのは戦後だ。・・・内面的にはこのとき以来、心を閉じている。だから、日本人が排外的になったとのはごく最近のことなのだ」(同書)1992年発刊の本なので、バブル期に書かれた本だ。日本から出る海外旅行者が1340万人になっても、「誰もがせかせか動き過ぎる。あちこち廻りすぎる。しかし、どんなにどっさり見て廻っても、人間は自分とかかわりのあるものしか目を向けない。ちょうどハイエナが、いつも腐肉に近づいていくように」(池内紀 ひとり旅は楽し2004年)。
自分の既成観念を壊してくれる本はありがたい。たとえそれが結果として間違っていても、同じ考え方の人間の本を読むより、大脳が柔らかくなって気持ちがいい。何歳になっても自分の観念や思い込みを強化する本やニュースではなくて、むしろそれを壊すものに対峙できる、受け入れる自分でありたいと思う。腐肉に近づくハイエナにならないために。
坊主の孫。
北海道はいち早く典型的な外国文化を取り入れた土地柄ですから、我々のように本州からの移住者には、入植した祖先と同じく、まるで外国でした。見る物も珍しく、食べる物も、そして一番の違いは言葉と習慣です。それらすべてが本州各地の文化と外国式文化の入り混じった世界でした。しかし、本州にしてみても、その昔は文字をはじめ信仰も鉄器も陶器など百済や中国の優れた文化を受け入れて来ましたから、鎖国はその後の話なのでしょう。和紙と言っても製造法は中国からの伝来かも知れませんね。言葉は方言で別れますが、日本海側の言葉には確かに百済系のイントネーションが今も残っていますし、その各地の方言が北海道では更に進化しています。例えば有名な日本刀なども確かに世界的にも有名ですが、元はと言えば朝鮮の鉄器の技術の伝来が起源でしょうね。今や特に中国はすっかり変わってしまいましたが、昔は日本の良き隣人であり良き文化のお手本だったのでしょう。
seto
北海道の中にいると文化やコトバ。習慣については違和感がありませんが、ひとたび海を渡ると屋根の形や方言に出くわしたり、しきたりで戸惑う(私には経験ないですが)こともあるでしょう。文化は人とともに伝わりますから、半島から来たものが多いでしょうね。先日、日本人の起源(縄文や旧石器時代)で縄文人は南からと北から列島に入ってきたとか、いろんな説があります。ウィルスを分析してみると北のアイヌと沖縄、四国紀伊半島、三陸、男鹿半島など連携が見られると分析されています。全国に点在していた縄文人が半島から弥生人が戦争と稲作、土器づくりや鉄器文化を運びました。弥生人と混血したり、戦争をして敗北、結局、北と南に色濃く残ったわけですね。出雲の国(豪族)と大和朝廷の戦争で出雲が負けたわけです。