50歳のとき、心筋梗塞で救急車で運ばれ,50日間の入院、初めての長期の休息であった。といえばかっこいいが、病室にラーメンの写真を貼った。大好きな醤油ラーメン。当時の週刊朝日の巻末で全国の美味しいラーメンを紹介している美しい写真を切り取った。半分死にかけて生き残って(後で聞いた話)考えたのは、病気になった原因の分析ではなくて、シャバに出たらまず何を食べるかであった。卑しい口であるけれど、ラーメンを食べて汁をすすり、ああ美味いと丼を置く自分の姿であった。主治医が「まだまだラーメンを食べるのは無理です」と言われたことは覚えている。ナースステーションにつながってる私の心電図の波形が安定せず、冠動脈を広げるカテーテル処置に入れない状況が長く続いたからである。テレビドラマや映画て泣けるシーンがあると、看護士が飛んでくる。「いま泣いているでしょう?心臓の波形が乱れている」と言ってくるのである。泣くだけで心臓の波形が変わるのである。
それでも病気は、夢のような出来事で、自分のことなのに自分のことでないような感覚でもある。不思議だ。たぶん、自分の死もまるで誰かの死であるような感覚に見舞われるとありがたいなあと夢想する。しかし、『痛い、痛い、殺してくれ』と叫んで死んでいった人も身近にいて(肺がんと白血病)、痛みは絶対的にその人自身しかわからないことなのでこれ以上は書かない。大岡昇平の小説を読んでいると、第二次世界大戦中、フィリピンでの日本軍兵士の『一杯のきれいな水(汚いとすぐに下痢になる)』『一片の食糧』『1本のタバコ』が大きな兵士の喜びとなる。ラーメンなんて贅沢な世界ではない。そうした世界から奇跡的に帰国できた世代が90代に入ろうといている。
しかし、当時の資料や記録は本屋や図書館に山のように積んである。学生なら『きけわだつみのこえ』やラーゲリならロシア文学の内村剛介さんの新書版もあるし、立花隆さん『シベリア鎮魂歌』(香月泰男の世界)もある。事件や歴史は書いてくれる人、目撃したことを冷静に分析、記述してくれる人がいるから残ることをあらためて感じる。権力者は自己都合で歴史を残そうと必ず横に記述者ブレーンを置く、古代からこの事態は変わらない。庶民は文字で歴史は残さない、残せない。そのかわり伝承や口承で孫へおじいちゃんから、おばあちゃんから伝える。使い古した民具で残すことも多い。絵も多いからそれから想像力を働かせないといけない。いまはSDカードや各種メディアで残せると思っているけれど、紙の耐久性のほうが長いのではと筆者は思う。メディアは必ず電力を介在させないと働かないが、紙はお日様があれば読めるからである。
ラーメンの話から話題がそれていってしまった。

お店に入ってラーメンも食べなくなりました。昨夕、久しぶりにカップラーメンを食べましたが、味付けも昔から変わって居る事に気づきました。昔、移住した時に最初に出会った札幌ラーメンの味はどこかに伝承されているのでしょうか。やたらとラーメンブームで沢山の専門店ができましたが、札幌ラーメンは札幌で十分なのに横浜系だとか豚骨など本州の味の店も多くなりました。ご当地グルメは残って欲しいですね。昼食にラーメンライスなど食べていた頃が懐かしいです。しかし考えてみれば、私も真冬の1月下旬に移住してきてアパートを探して住んだ円山でお世話になったのがラーメン博士と言うお店のご主人でした。当時狸小路の1丁目で買った質流れ中古ストーブの不完全燃焼で一酸化中毒寸前の目に遭ったのですが、ご主人は代わりのストーブまで貸してくれました。ラーメンも、ストーブも、人情にも温かさに感謝したものです。あの頃のラーメンが懐かしいです。
南2条通り東1丁目 二条市場にある「だるま軒」が、昔の少年さんの求める味にぴったりだと思います。ここの醤油ラーメンは素朴で昭和レトロの雰囲気あります。お試しあれ。味にこだわり過ぎて、何が入れられてるかわからない。透明なスープが飲みたいときあります。ホクレンビル地下の一粒庵もよく行きますが、観光客で満員。エスタのラーメン街にある小樽本店の初代はあっさりしてますが、小樽本店の美味しさがありません。一玄のエビラーメンも本店で食べましたが、臭くてダメでした。空港内の一玄は長蛇の列です。スーパーで売っている有名どころのラーメンを買ってきて、自分で茹でて、モヤシを炒めてつくるラーメンが美味しいです。京都の火を噴くラーメン試食したいです。