
私が中学に入ったときから、偏差値教育が始まった。当時、同級生と「SSが50だった、60を超えた」などとしておしゃべりしていた。SSは Standard Score(スタンダードスコア)の略。標準点。上のグラフで見ると偏差値50が標準。65へ近づくほど偏差値高いということになる。教科別にこの分布図ができて、さらに総合点でも偏差値が出される。小学校時代は、テストで90点以上であればどの教科も通信簿に5がつく絶対評価だった。中学に入ったとき、クラスにはオール5が7人もいた。ところが、偏差値が始まると易しい試験なら80点を取っても、90点以上が大半なら、偏差値が45しかならない。5段階評価もこの分布図の右側数%が5、ついで4、標準3となる。1と2は、比率的にはそれぞれ5と4の割合だというが、本当だろうか?学校ごとでの偏差値を地域ごとに、繰り返して、偏差値が当たり前の思考にしてしまった。
基本、偏差値50の位置は揺れる。他人の点数に左右される。偏差値を上げるためにできることは、そういう希望があればの話だが、(1)自分でがむしゃらに勉強をすること、(2)もう一つは他人の点数を下げることで自分の位置を相対的に浮上させることだ。このほうが楽かもしれない。勉強といってもただ点数を上げるためだけの勉強。受験勉強の苦い思い出が私にもある。
首都圏に住む兄が孫の受験の話をするときに、必ず偏差値〇〇という、〇〇高校や〇〇大学はいけそうだと話す、兄も偏差値教育を最初に浴びた世代だ。
ここまで書いて、きょうのブログのテーマは「呪いの言葉の氾濫」。私たちが受けてきた偏差値教育の後遺症が色濃く残っていないかということだ。匿名や本名を名乗ってもいいのだが、「呪いの言葉」、相手を貶めるコトバがSNSで氾濫している背景に、その精神のバックーボーンに「他人の点数を下げることで自分の位置を相対的に高くする」癖が染みこんでしまったのかもしれない。フェイスブックに投稿する知人たちを見ていて、できるだけ相手と話題が被らないように写真の選択、文章を変えているように思うのは私だけだろうか?「比類のない私だけ」を模索している営みに皆さん「いいね」ボタンを押してください。絶対評価をしてくださいと願ってるように思える。

フェースブックの更新依頼が盛んに来ています。随分前ですが『いいね』に非常に抵抗を感じた時点で辞めていましたが、盛んに誘いが来ます。さほど発信するだけのネタも無く、かと言って他人の記事にも余り興味が無いので気がすすみません。自己PRには有力な手段かも知れませんが、選挙に出る訳でもありませんし自慢するほどの話題もありませんから。
私は花と風景の写真だけ見ていますが、こちらから発信はゼロです。ほぼブログで書いてある事柄だけですから。写真もいいもの撮影できれば、ここで使える。フェイスブックやSNSは文が短くて書きようがありません。ビジネスライクな通信だけの価値です。
SSつまりは人間の格付けですね。全員を一定の成績に位置付けるのではなく、落ちこぼれは置いてけぼり教育では上下の差が大きく開き、やがては貧富の格差にまで発展するのでしょうね。『人の上に人を作らず、人の下に人を作らず』の精神に反していますね。生ぬるい教育では競争社会には通用しないとは言うものの、置いてけぼりの人材の中にも或る方面では抜き出た才能の持ち主も居るやも知れませんから、そこが見える教育も必要でしょうね。
SNSの怖いところは「呪い」です。発信者の呪い、恨みやネタミが後ろに隠れている場合が多いです。「いいね」を押しながら「また自慢しやがって)とか「今度は俺がいいねをたくさんもらえる写真を出すぞ」みたいな。フェイスブックの載せるためにわざわざピザを作ったり、流行りの店に行ったり、観光巡りをしたり、学術知識を披露したりします。すべて「どうだ、おれは凄いだろう」かな?大馬鹿になれるくらいの創造力が欲しいですね、これからの人材は。