「人の一生は短いものだ。荷物なんかで、わずらわされるのは、じつにつまらんことだ」というドリトル先生の言葉を引用しながら、福岡セイセイは「今、いらないものは将来もいらないですよ」と語る。初めから持ってなければ「断捨離」もないわけで、あっけらかんとした人生観だ。「センス・オブ・ワンダー」(阿川佐和子との対談 171p)。逆に「今、いるものは将来もいる」も真実だ。ここに入るのが水や空気や食料や雨宿りをする屋根、暮らしを支える家族や友人そして人々の健康や笑いだ。酸素を供給する植物たち、土をつくるミミズや受粉させて果物をつくる虫たちだ。雨を降らせる雲も必要だ。自然の生物の循環の輪の中に入っている生き物たちもだ。

「人の一生は短いものだ。荷物なんかでわずらわされるのは、実につまらんことだ」阿川佐和子さんが、タクシー運転手とのやり取りも紹介していたので書いておきます。運転手さんが「人間をだめにしたのは三つのクラです。冷蔵庫と金庫と倉庫」(163p)「冷蔵庫ができて物を保存、倉庫ができてものを大量にとっておく、金庫ができてお金をストック。この三つが人間を欲張りにした」。考えさせる運転手さんの言葉だ。たくさんのビジネスマンを乗せて車内で語られる本音トークを分析したのかもしれない。

ところで、人生の荷物ってなんだろうとあらためて考えると、思い浮かぶのは住宅ローンを抱えた自宅であったり、学資ローンであったり、クルマであったり、その他荷物になり得るものたちだ。物は物を呼ぶから要注意だ。私の職場の大恩人が78歳で脳梗塞を患った。話せるが運動野がやられて車椅子生活だ。これまで収集した(DVD・ブルーレイ、レイザーディスク、CD、LPレコード、落語集、軍用機のプラモデル、山のような書籍類)、大好きだった新聞にも目もくれず、ご主人が好きな作曲家のCDを奥さんが持っていっても聞こうとしない。「あれだけ夢中で収集してお金を投資していたのに」と嘆いていた。生まれてから私たちは自分の周りにたくさんのもを貼り付けて生きてきた。見栄もあるだろうけれど、本当に必要なものなのかどうか点検してみたいものだ。

  1. ホランペッター。

    コロナ禍直前の2019年の暑い夏、大阪は伊丹経由で新大阪駅から新幹線で広島は義兄の一人息子の葬儀に行った時の事です。若くして亡くなった義兄の息子は一般に言われる知恵遅れでしたが、身体は巨漢で一見普通に見えましたが、何処か違っていました。しかし特殊な能力があって機械にはめっぽう強かったです。そんな彼が未だ小さい頃から集めていたのがカセットテープやCDや録音テープなどでした。中には西部警察の全巻を録画したモノやアイドル歌手などいろいろでしたが、彼にとっては大切な宝物に違いないのですが、残された者にとっては価値を感じられないモノでした。私は、その遺品整理をしました。また、私の父が趣味多彩な人でしたから水彩画などがありましたが、兄姉たちには興味も無く、私自身も余り価値を感じませんでした。そんな訳で処分しましたが、本人が大切にしていたモノも他人には何の価値も無いモノだと痛感したものです。これを自分に当てはめれば、他人に残すようなものは無い事に気づきますね。楽器だって家族にとっては無用の長物。むしろ今現在も邪魔者扱いされている始末ですから。これで価値あるモノや預金や資産でも沢山有れば別なんでしょうね。

    • 子供に先に逝かれる悲しみは親にとって最大の悲しみですね。義理のお兄さんの一人息子さん,機械に強くカセット、録音テープ、録画テープコレクターですね。集めているだけで楽しい時間を過ごしていたんですね。私も単なる石を集めていたことがあります。下駄箱の上に並べて楽しんでいましたが、いつのまにか捨てられていました。純金や紙幣やプラチナや土地の利権書、株券なら興味を持たれるのでしょうがね。残念ながら子供たちに残せるものはありません。権力もあり、金もあるうちは他人が寄ってきても、いざ失うと誰もいなくなる傾向がありますね。そういうときでも以前と同じ付き合いができる器の人間になりたいものです。生きる上で、必要なものはそんなにないですね。私の周りに80歳を超えてガラケイを持たない老人が何人もいます。子供たちが「古いガラケイをくれるが、要らないと断っている」と。少年時代は千葉で特攻隊の訓練をしていたらしい。ときどき地元紙にコラムを書いています。現在90歳、自転車を乗り回しています。絵も上手で書道も上手。ガラケイ、スマホ、パソコン、インターネットなんくても楽しい人生を送っている人がこんなにたくさんいりというのが発見です。

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