アダムスミス(1723年~1790年)の有名な言葉だ。技術革新で格差と貧困がイギリス国内を覆う中、アダムスミスは書いた。『私たちは皆、他者を幸せにすることに喜びを感じる』と。他者といっても家族もそうだし、友達だったり、近隣の人だったり、会ったこともない人であったりする。嬉しい言葉である。日常生活を営んでいれば、殊更言う話でもないが、しかし、長い(長くない?)年月を生きてくると、『私たちは皆、他者を幸せにすることに喜びを感じるとともに、私たちは皆、他者を陥れることに喜びを感じる』とも言える現実に出くわす。

企業に勤める賃金労働者なら、人事権を行使できる立場に立てば、自分が気持ちよく仕事ができるため、不快な気分にならないため、同僚の異動を画策する。実際、私の知る人はそれによって辞めていった人がいた。辞めた後、離婚に見舞われ、いくつかの企業を転々として行方知らずである。あるスポンサーが倒産して、同僚から『もう辞表を書いて楽になるしかないのでは』とアドバイスされたという。会社全体からみたら微々たる数字なのでいくらでも救済できたはず(しかも二人は同期入社)。他者の人生をズタズタにして、役員になった彼は、たくさんの営業マンをその後、絶望の淵に追いやった。劣等感の強い男(=プライド高い、田舎の神童)であった。

現代、非正規雇用者が、年収200万前後の人たちが、首を切られて失業している実態を見ていて、アダムスミスの『私たちは皆、他者を幸せにすることに喜びを感じる』どころか、自分の企業の利益を減らさないために他者の不幸はやむ負えないという価値観にいつのまにか舵を切ってしまった。新聞、ネットニュース、ユーチューブで貧困をキーワード検索をするとたとえばアメリカ人の50人が富の50%を所有するとか、日本の金持ちも財産の節税対策でケイマン諸島や香港・シンガポールに移して税金を払わない一族があったり、国税で仕事をもらって、税金として還付しようとしない強欲資本家・投資家が跋扈する。完全失業者が200万人を超え、失業率が3%台。あらかじめ仕事を探そうとしない引きこもりを加えると600万人になってしまう。安全な社会は均等に仕事をすることで保たれることを思えば、無職の多い世の中は犯罪を多発させる。加えて希望の喪失、目先の快で生きる癖。共通はどちらにも他者を幸せにする余裕や観念がその人から消えているということだ。

  1. 確かに他者を幸せにする事は歓びですが、その前に自分自身が幸せでなければ余裕も無く他者を思いやる気持ちも芽生えないでしょうね。たとえ最低限の幸せが有っても、自分自身の事で手一杯の人が殆どでは無いでしょうか。自分が不幸になっても、他人が幸せになればいいと思える人はどれ程いるのでしょうね。しかし富裕層が他人を助ける確率も低いと思われますね。何故なら不幸を知らないどころか、上しか向いていない筈で、更に上を目指すからです。中層階級の生活に差し迫って困っていない人なら、心にも少しは他人をも考える余裕は有るのでしょうね。しかし不慮の事故や事件や自然災害や紛争となれば、同じ現場に居れば、他人にも手を差し伸べ救う行動に出るでしょうね。それが、たった一人の命であっても『一人の命を救う事は世界を救う事に等しい』それほどの価値がありますからね。救われた人の歓びと感謝に自分自身も幸せを感じる筈です。

    • 富裕層は貧乏人には全然優しくないのだけは100%確実です。しかも2代目3代目の人たちはなおさらです。自分の幸せは身近にたくさんあると思うのです、病気を持っていない、飢えないだけの金銭がある、1日1回笑いや笑顔がある。お金持ちの家にある家族にある不幸ってとても多い。有名人であるがゆえに、権力者であるがゆえに不幸の只中にいる人や家族は大勢います。他人の幸せにこちらも幸せをいただきます・・というコミュニティがサイコーですがね。昔は私も中流家庭でしたが、いまは沈んでいますが、困った人がいれば助ける生き方は小学生時代から変わりませんね、長屋暮らしで積んだ知恵です。新興住宅街にはない顔の見える気楽さはありました。いまも私は長屋的な生き方の発想を続けています。ときに「お節介」と嫌われますがね。富裕層や有名人は不幸の塊だと私は思うのですが、いかがでしょうか?消費に終わりなく、たえず他人と買い物の競争をしたり、どこへ行ってもキョロキョロみられて、カメラの視線を感じて生きるのは幸福とは言えませんよ。そういう普通感覚を昔の人は持ってましたよ。SNSで拡散されて後処理に心労と時間を費やしますよ。

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