何が何でも戦争だけはしちゃいけない(黒澤明ほか多数)
黒澤明「生きる言葉」(PHP、黒澤和子194p)。「どんな理由があっても、戦争だけはしてはいけない」「自分の大切な人が殺されそうになったら反撃しないのかって、よく反論されるんだ。そういうことじゃないんだ。戦争というものが始まってしまうと、虫も殺せなかった人間が人を殺し、こころ優しい人間も身内を守るために鬼の形相になる。戦禍の中では自分が生きていくだけで精一杯、人間が人間でなくなるから怖い」「戦争を始めるのは簡単だ。でも巻き込まれた人間の心が立ち直るまで、さらに世代を超えて累々と悲しみは続くんだよ」
娘さんの和子さんが父黒澤明の残した言葉のアンソロジー集から。
昨日、j久しぶりに「ニューシネマパラダイス」を見た。主人公トトのお父さんがロシア戦線に送られて帰ってこない。お母さんに「亡くなったの?」と聞くと、「ロシアは遠いから帰ってくるのに時間がかかるんだ」とお母さん。後日、戦死の報が届き遺族年金をもらうことになる。6月23日は沖縄戦争慰霊の日だ。北海道出身の兵士が沖縄に続いて戦死者が多いのをご存じだろうか?「平和の礎」に刻名された人数は沖縄出身者が149,584名、県外が77,485人。中でも、北海道が10,805人でダントツに多い。そういえば亡くなった母が「沖縄へ行くときは観光で行ってはいけない。祈るために行くのですよ」と言われたことを思い出した。神戸港から初恋の人(海軍兵士)と別れて、大阪空襲から逃れて北海道に戻ってきた母なので、もしかして軍艦が沖縄線に投入されたことも考えられる。現金と実印と通帳を母に渡して別れたと言っていた。二人で歩いた造幣局の桜並木の話を私に何度も話してくれた。ふたりが結ばれたら俺は生まれていないんだけど。何度も何度も母はこのときの思い出を宝にして生きてきたんだろうなと思う。
ゼロ戦パイロットの弟。
戦争で亡くなられた方々には大変申し訳ありませんが、私の家族は戦争で一人も亡くなっていません。父は、母の姉妹の嫁ぎ先の下町の軍需工場で、潜水艦の冷却装置を作っている町工場の監督で、お国の為に必要な人材と、戦地には行かず終戦間近まで空襲の東京に母や姉たち3人で暮らしていたそうです。姉たちは学校に肩から防毒マスクの入った布袋をかけて登下校したそうです。米軍のB29爆撃機襲来の度に空襲警報の中の暮らしです。そんな時代ですから兄はいち早く池袋にあった豊島師範学校を自ら中退して予科練から海軍飛行隊になり、諫早を皮切りに全国の飛行場を転々とし、空母での夜間発着訓練など実戦訓練の毎日だったそうです。神風特攻の難を逃れたのは飛ぶゼロ戦の数が減った事と終戦だったそうですが、しかも長男と言う理由で出撃順の違いだけでの命拾いだったそうです。お国の為と言わされ自ら進んでの神風特攻と美化されがちですが、実際は違うと思います。しかし幸か不幸か我が家は、父が田舎出身だったため疎開先があったのです。焼け野原の東京の家を捨て一家で疎開し、やがて兄も復員。一時は7人家族の田舎暮らしでした。最低限の暮らしと言っても食べる事には困らないのが農業や林業を営む田舎の良さですから、何とか暮らして行けました。私達家族の本当の命の恩人は、あの田舎とそこの人達です。私は幸いにも、焼夷弾の降り注ぐ空襲も、戦争も知りませんが、記憶は田舎暮らしがスタートですから、戦争体験者の両親や兄姉たちと違って、呑気なものです。下の姉と、たった6歳しか違わない末っ子なのにです。それにあの戦争を、家族の誰もが多くは語ってはくれませんでした。それほど無残なものだったに違いありません。まして戦地でお亡くなりになられた方々の最後はどんなに過酷で悲惨だった事でしょう。今、世界の各地で実際に戦争や紛争が起きていますが、主導するトップは私と同様に戦争の無残さを知らない人達です。しかも彼らは常に安全地帯で人の命をもてあそんでいます。そんなに戦いが好きなら昔の戦国武将のように自分が最前線に行って見なさいと言いたいです。どんなに偉かろうが、誰だろうが、そこは皆同じ明日の命の保証などありませんから。自分が蒔いた種ですから、自分で刈り取る(終結)のが筋ですから。
seto
祖父の兄弟、祖母の兄弟に特攻隊員が私の場合、いました。母の恋人も戦艦に乗って帰らぬ人。なので直接、自分の家族には戦死者いません。レイテ戦記や戦記のドキュメンタリー見ますが、飢え死にばかりの日本軍、大将だけは飛行機で帰国します。関東軍もそうでした。1945年は、日本中、帰れる農家(実家)があったので餓死が圧倒的に少なく、とりあえず食べれる国民だったんですね。水、食料、トイレ、屋根、毛布、電気が生きる上で最小限必要ですが、現在のガザを見ているとどれもありません。自室のガラスの向こうが青空、そこからロケット弾が落ちてこない幸せを感じるこのごろです。