1955年、都電の中での会話(工員2名)
先夜、電車の中で、二人の酔っ払った工員らしい壮年の男が話をしていたが、それを聞いて、僕ははなやかなネオンサインの光が窓の外を走ってゆくのを見送りつつ、ほんとうにやきもきしてしまった。二人の工員は、賃金値上闘争のストライキで勝っても、このざまだといって、すてばちな口調で生活苦を訴えあっていたが、「どうも、ちかごろは、戦争当時のようなはりのある気持ちがなくなっているよ。あの時代のほうがいいや。皆がもっと平等だったからな」と一方がいった。すると相手は、「まったくだよ。あの時代は徹夜してくたくたになっても、べつにいやな気はしなかったな。社長も部長も課長も、同じ服を着、おなじ飯を食い、おなじように目をしょぼしょぼさせてやがったからな。ちかごろは、なんじゃい!社長は高級車で芸者あそび、課長はキャバレーでお客の接待。おれたちは・・・・・。」こんな会話は、僕を慄然たらしめる。つまり、こんな会話のなかにも、すでに、現在の平和を破りさるものの萌芽がいくつもあることを感ずるからである。
フランス文学者の渡辺一夫さんのエセイ「うらなり抄」(カッパブック 昭和30年)の「平和の悲しさ」(93p・94p)からの抜粋で、戦争当時とは朝鮮戦争で日本全体が特需で沸いた時代で、今なら残業過剰で訴えられるかもしれないほど全員で働いていたころで、社長から平まで同じ服を着て汗水垂らして働いていたときの充実が失われ始めていることを、工員は言い始めている。夜のネオンサインの華やかさとと無縁な人々。同じように日本でバブル時代があったが、その恩恵を受けた人はそんなに多くはなくて、土地や株で儲けた人、バブル紳士から宝石をもらい、高い店で接待を受けた人たちで、多くは1955年の工員と似たりよったりであった。なかなかこれを30代や40代に説明しても信じてもらえない。サラリーマンは多少、給与が上がっても、それだけのことで、子育てと住宅ローン返しも利率も高くて、中古住宅ローンでも4.5%で返していたのである。生活は決して楽ではなかった。
こういう日常の会話のなかに、新聞やテレビでは表現しきれない時代が見えてくる。詩人や文学者に時代を映す言葉がある。渡辺一夫さんのもう一つのテーマにこんなのがある。
「寛容(トレランス)は自らを守るために不寛容(アントレランス)に対して不寛容(アントレランス)になるべきか?」である。
16世紀の宗教戦争を、12世紀の十字軍戦争を髣髴とさせる戦争の数々を思えば、ホモサピエンスの歴史とともに古いが普遍的なテーマ、未解決なテーマである。紛争の種は尽きない。
昔の少年。
徹夜を繰り返し地下鉄の中で居眠りをして地下街をふらつき乍ら出勤したころ。或る時は朝の出勤前に倒れてクリニックで点滴してから出勤も。あの頃は仕事も溢れていて嬉しいどころか苦しい時代でもありました。会社の組合からは『残業時間超過』と会社側に通告したほどで、それも可笑しな話で、支店長より給与が高くなるからと?言う訳です。当たり前の話ですが、それも我々現場の人間だけで上司はと言えば気楽なもので、呑み喰いゴルフに明け暮れていて、昔で言うタコ部屋の棒頭的な人が多く、今で言うパワハラ上司でした。『オイっ!お前!』と、まるで軍隊調の口の利き方が当たり前でしたね。当時の彼らは皆、戦争には行っていなかった少年時代に終戦を迎えた世代でしたね。時代が生んだ落とし児でした。終戦後80年になろうとしている現代では通用しなくなっていますから、考えてみれば可哀そうな世代でしたね。その後、産めや増やせの団塊の世代も終戦直後のすさんだ時代に育てられた方々ですから、若い世代とのギャップは埋められなかったですね。ここに来て世代交代も進み、社会全体の仕組みも変わろうとしています。昔の私達のように倒れるまで仕事に没頭する時代はようやく無くなったようですね。当時は当たり前にも感じたものですが、過ぎてしまった今思えば懐かしい時代でもありました。
seto
営業だけで40年過ごしてきているので、制作や内勤業務の残業はなかったのでわかりません。残業代は営業の場合、してもしなくても36時間給与でもらえました。あの時代、広告代理店はヤクザ風の言葉遣いする人間がはびこっていました。命令形ですね。私大出が多かった。ヨーカドーの仕事もしてましたが、SM(ストアマネジャー)はポケットに手を突っ込んで「おらおら、そんなことで仕事できるんか?」と恫喝っぽい口調。流通はヤクザ集団みたいでした。その真似をする課長がいて、退職するまで言葉遣いは治っていませんでした。仕事といっても下請けに丸投げをしていただけと思います。それより5時からの飲み会画策をしていたのではないでしょうか?団塊の世代を見ていると、ズルイやつ多いです。屁理屈は凄いが、自ら体を動かして仕事に貢献しません。そして給与が十分高いのに、そこには不満だらけ。ブーブーでした。33歳で入った私なので、この程度の仕事で「皆さん、もらい過ぎでは?」と言うと彼らは「お前は苦労のし過ぎだよ」と返されました。ずるがしこい団塊世代です。特に集団化すると怖いくらいです。
アドマン。
過ぎた当時の時代背景はやや殺伐としていました。新聞社の申し込みスペース調整窓口の担当者たちは、我々広告代理店をまるで奴隷扱いの口調でした。それも今問題の或る特別な代理店以外は。その特別な代理店との間には直通電話がありました。マスメディア天国で、ごく最近まで暫く続いた独特の風潮も段々と影を潜めて、あれほど威張っていた窓口担当者が営業職に配転になり我が社を訪れた時の一変した態度には他人乍ら情けなかったですね。同じ人間でも立場が違えば別人になれる事に感心したものです。社内でさえも絶えず問題が起きていました。これは冗談ですが、私は制作部でしたからデスクワークが主でしたが席の後ろには木製の野球バットを立てかけていました。社内の野球大会で使用したものですが、若い社員から『何故?バットがあるんですか?』の問いに、『あの気に入らない上司と口論になった時に使うのさ!』と言ってやりました。勿論冗談ですが社員たちは賛同したのか笑って居ました。上司イジメは楽しかったですね。強引な上司から『この仕事をすぐやれっ!』と。『優先順位があるのでこれが終わってからですね』『オレならそんなもん30分で出来るぞ!』『ああ、そうですか!じゃあ見せていただきますから、目の前で直ぐやって見せてください!』『しっかし・・・!お前なら・・・』と言う事で、以前に多少制作経験のあった上司はスグ横のデスクで始めましたが、何と三日間も掛かりました。痛快でした。当時は怖いモノ知らずで、文句が有れば何時でも辞めてやるとでも言わんばかりの強気でしたね。何の裏付けも無い若さの勢いだけでしたが、なんと入社時に私を推したのは、その上司でした。
seto
バブルのとき15段のカラー広告スペースを代理店同士取り合いになりました。毎日のように分捕り合戦でした。紳士服もデパートも夕刊のテレビ欄下10段も予約でいっぱい。お金がぶんぶん回っていました。道内でも不動産広告がおおかったですね。いまならスキー場やスポーツグッズ広告、忘年会のお知らせ広告、大きな施設がオープンすると見開きでオールカラー広告でした。会社の中で物騒な事件はありませんでしたが、横領事件の余波は大きかったです。お金にまつわる事件のない企業や団体や政治団体、家庭はないと思いますね。ポピュラーですが、一度味をしめると、熊もそうですが止められなくなります。株も土地ころがしも、ギヤンブルも。いま思うと「何がしたいから金が欲しい」という事業欲からではなくて「金のために金」というただ貯めるだけという人が多かった。ゴルフブームも支えた人たちでした。自民党内も20年間バブルだったんですよ。
郊外に住むバブル経験者
バブルは体験しました。親戚が京都に戻るので澄川の中古住宅を買って欲しいとの事で当時の拓銀ローンを組みました。バブル当時の変動金利ですから、日に日にうなぎ上りで金利が上がり、これは大変と住宅を売却する事にしました。今なら考えられないですが平屋でしたが、土地が広かった事も有り東急系の不動産会社から『好きなだけ言ってください。買い手は居ますから』と。そうは言われても不動産の相場もあるのでそこそこの希望を言うと一発回答でした。中古住宅も修繕費に掛かったので建売を買う事にして残債を銀行に支払いお残りを頭金にして再ローンを組み引っ越しました。しかも、クルマも古かったので知人に売却して新車まで買ってしまいました。住宅ローンは続きましたが、同じ借金でも新しい家の借金だからと自分に納得させましたが、今では老朽化で修繕費捻出に困っています。バブルが去った今では、家もお荷物、負の財産ですね。近所の方々の家も売り出して居ますが現在では安いらしいです。建材も不足していて買い取った業者も建て替えずにリノベーションにお金を掛けてから売りに出していますからね。売るにしても買った時の3分の1程度らしいです。あのバブルって何だったのでしょうね。私の場合は土地やマンション転がしで儲けてなんかは居ませんがね。
seto
私はバブルは広告募集をしやすかったくらいですかね。株式で儲けた人が社員にたくさんいましたよ。社長みずから、朝一番に太平洋証券の株式テレビを見に行き、手帳に記入することで、仕事はそっちのけ。「サラリーマンで株をやらないやつ信じられない」と言われたこともあります。ゴルフ会見も二つ買い、トマムリゾートの会員権も買いました。私は何もしません。住宅ローンと子どもの教育費で目いっぱい。父母から「連帯保証人と株は絶対するな」と若いときから言われていたので、それを守っていましたね。手に汗かいてもうけたお金でないと身につかない。これ本当です。パチンコで儲けたことありますが、すぐになくなりました。住宅も貧乏くさい家のままです、40年経過します。