天才は自分の不利なことでも平気で喋る
「天才は面白いと思ったら自分の不利なことでも平気で喋る。秀才は自分が損するようなことは上手に隠す」(河合隼雄)。あなたの近くにそういう天才はだしの人っているだろうか?トリックスター的に振る舞うムードメーカーも大事で、これはこれで相当な才能とは思うが、見るところ一を聞いて十を知る、ひらめきが尋常ではない人、気になったらどこまでも追及して止めることをしない研究肌。
私の知っている天才的なは中学生は若いときにぼやっとして、自宅で勉強もせず、毎朝、花壇に植えた花の成長を観察してから登校。授業を聞くだけでいつも全校一番、話にも無駄がなくユーモアもあり人気者。中学3年間、毎日、彼と登校したお蔭でなんだか私も賢くなったような気がしたものだ。そして何かいつも考えている。それがぼやっとしている印象を与えるのだ。高校入試も全道一番で入っていった。以降はノーベル賞云々の話もなく理系の大学教授をやってるみたいだ。
私の育った下町は天才の出るような環境ではなかった。天才的な人はいたけど天才はいない。みんなボケットしていた。「下町ボケット」集団だ。そう考えると、研究者は天才はだし、官僚や役人や大きな組織の民間会社勤めは秀才か?そんな分類が可能かもしれない。でもたいしたことないね、みんな。定年になったらわかるけど。喋って楽しいやつは少ない。人生を楽しんでる友人が少なすぎる。これでは後輩は育たない。
中学の1年に入ったら「このクラスにはオール5が5人います」学年は7クラスでほぼ35人のオール5ばかりだ。当時は絶対評価だ。偏差値ではない。小学校は55人学級で10クラス。1学年550人×6学年で3300人の札幌一のマンモス小学校。凄まじい。私みたいないい加減な人間も出てくるわけです。学芸会は全員でお歌1回。運動会は徒競走1回と3300人でソーラン節踊りに組体操だけ。これに見学の親が入るから狂気なイベントでした。リレーにでも出ないと目立たない。1年に1回のバナナを食べる楽しみくらいな運動会。生徒が多いから担任からも干渉されない、自由をたっぷり味わうことができる。本当はこういう環境は天才児が育まれるのだけど、環境が良くても種と卵が適切でないと天才は出ない。
干渉のし過ぎは、子供の芽を摘むかも。好きなら言われなくても自分からする。若いときに伸びきったゴムひも状態も年齢を重ねていくとしぼんでいく。私の周りは干物になる速度が速い連中が多かった。イキが悪いのだ。
天才の話といえば、前にも書いたと思うけど、キャノンに勤めた友人が「会社の研究所に毎日、噴水の横の芝生で空を見上げてはため息をついたり、メモをしているようで、みんな、きっとあいつはいまに素晴らしい発明をするはずだ」と思っていたら、そのまま定年を迎えて何事もなかったと。吉本興業創業時の漫才コンビの片割れの血を引く彼だから、ひとり漫才とは思うけど、なるほど「天才のふり」と「天才という誤解を世間に与える」ことくらいはできると確信した話ではある。でも天才って、何かいいことあるんだろうか?大抵、不遇な生涯で終わるのが相場で、周りの理解者がいないときつい人生を送りそうだ。今の時代で平凡を貫くことも平凡なことではない。その方が天才的な人生かもしれない。
凡才バカボン
聞いた事はあるけれど、天才に会った事はありません。偉いと言われている作家やヨットマンや女性登山家や数学者や地震研究者や大学教授や有名な俳優などには会って話した事はあるけれど、皆んな普通の人たちでした。ただ、その道に没頭している人達で、それも好きなだけではなく暮らして行く為にサラリーマンとは違う道を選んだ適合者では無いかと思いました。職人も然りで、親戚に今どき宮大工をしている者が居ますが、特殊技能と言う訳で重宝がられて全国各地に長期滞在して仕事をしています。これも秀才でも天才でも無く、ただ黙々と長年生真面目に天職の仕事をこなしているだけの職人です。そう考えると天才って一体どこにいるのか?身近には居ないと言う事なのか?文字通りの解釈であれば、天から才能を授かった人と言う事ですから没頭できる天職を持つ人の中で特に秀でた一握りの人達でしょうね。サラリーマンの天才も居るには居るでしょうが、例えばノーベル賞など諸々の表彰を受けて天才と称される人達ですね。天才もいろいろで学者肌、職人肌、芸術肌、など多岐に渡りますね。
昔から『天才と狂人は紙一重』とも言われますから、狂人に分類されて社会から隔離されてしまった天才も居るかも知れませんね。
seto
天才的な人はいましたが、果たして天才かと言われるとどうかなと思います。日常は日々、こつこつ職人さんがモノづくりするようにこなしていく世界でしょうね。私の先祖は徳島で石屋さんをしていたらしいので、彫る仕事をしていたんでしょう。ノーベルだってダイナマイトを発明しなければ死者数が激減していたのに、罪な発明をしたものです。山を削ったりすることはあっても、発明品はすぐに人間は「武器」に応用します。天才が人々の幸福と健康に多大な貢献をしてほしいものです。現代は応用しているだけで、考え方ががらりと変わる発想や発明が欲しいですね。パラダイムシフトですね、。
坊主の孫。
笑顔の天才、苦虫の天才、天才バカボンのパパでも無いけれど、軽い気持ちで『天才だね!』と言われたり、言う事はよくありますね。言われれば悪い気はしないもので『私も天才か?!』と心の中で半ば納得してしまいがちです。つまり、天才とは誉め言葉であって実際の天才には程遠い訳ですし、言われた方も、お世辞だと分かっている筈ですが、褒め上手がよく使う手ですが、何故か嬉しいフレーズですね。
seto
褒めコトバっていいですね。食べ物でも料理人がお客さんから(天才)と言われると励みになります。天ぷらを目の前で揚げてもらう店に一度だけ行ったことがあります。美味しかった。油の温度もあるのでしょうが、揚げ名人でしたね。これといった才能もなくここまできた私です。