1)札幌の小学校で卒業式に羽織と袴にするという話が伝わってきた。エッ、大学生でもないのに。好き勝手な服装でいいものを。どういう経過で羽織と袴になったのか調べていないが、時代錯誤ではと思う。レンタルとはいえ5万円、女子は髪結いもある。汚したらクリーニングして返すことになっている。思い出の写真付きらしいいが、教師や親は複雑な気持ちだろうね。誰も反対者がいなかったのかどうか?驚きのニュースが氷割をしていた奥さんから飛び込んできた。

2)3月10日、新聞社でデジタル活用ガイドを聞いてきた。スマホとパソコンに困ったら読む本が無料でもらえるのでそれも魅力で参加した。タブレットが置かれていて、アルバイトの大学生が使い方を説明をしてくれた。新聞を音声で聞けるサービスもあるから視力が落ちたら使える機能だ。朝刊全部の活字数は文庫本でほぼ1冊分ある(20万字)、デジタルで読める新聞は原稿量にして96万字だからすごい。これを毎日だから、新聞漬けで生きてる人もいないから読むのは至難だ。職業として勤務する新聞社でも「最近、新聞を読んでいない」人がたくさんいる。参加者は60代70代の新聞世代が中心。講師の人と大学生の人に私のブログ名刺を渡したら「読んでみる」とのことで、目先の読者を増やすことができた。会社の先輩から「孫に貸していたi-padが戻ってきた。私のブログを読みたい」ということでここでも増やせた。人に頼ることなく名刺を渡していくのがいい。

3)私のブログは時事ネタが少ない。情報は一次、二次と高次になるにしたがって、誰かの借り物の話になって現場から離れていく。本ならば自分で読んでの感想だから、自分が責任を負えるが、事件現場に私もいないし、テレビニュースの映像も解説のない映像だけを見るようにしている。ユーチューブで頻繁に見るニュースサイトは、Arc Times、一月万冊、西谷文和の路上のラジオ。映像はBBCの動画を見るようにしている。新聞は、妻から話を聞く場合が多い。ほぼ全部のページを妻は目を通している。5段の週刊誌と書籍広告が大好きである。朝刊の連載小説は毎日切り取ってファイルしている。「いずれ単行本で出るが、挿絵がいいんだ」と。「しかし、いつまで続くんだろうか?終わる予定を教えて欲しい」。

4)「環世界」というコトバがある。環境というコトバと区別するためにある。動物とか植物にとって、見える世界がそれぞれ違う、生きる世界が違うと言うことで、極端なことをいえば、「客観的な環境はない」ということだ。考えてみると、人間でも同じ時間と空間にいてもAさんの見える世界、考えている世界と、Bさんの生きている世界は全く違う。それぞれの世界を生きている(主観を生きている)ということだ。どうりで夫婦ケンカをして、40年過ぎても相手の気持ちがわからないはずである。妙に納得する「環世界」という単語。

ウニの軍艦巻(新札幌居酒屋いろはにほへと・にて)

  1. 大家族の世帯主。

    我が家に同居の双子(男・女)孫の小学校の卒業式の写真を改めて見たのですが、羽織袴と振袖の写真でした。当日を思い出したのですが、予約済の着付屋さんに、卒業式当日の早朝は薄暗いうちから二人を連れて行きお化粧やら着付けを終えて写真撮影の後学校へ。羽織袴の男児も振袖袴は全校でも一部の10数組だけでしたね。これも子供達より親など親族のエゴですね。

    • 当時から羽織と袴はあったんですね。びっくりしました。七五三の延長ですね。記念写真を撮るためですね。経済的に余裕のある親のエゴですね。質素をむねとしたいものです。

  2. 仕事の関係で地方紙を購読し、オンライン会員ですからネットでも読めるのですが、新聞はやっぱり紙ですね。いつも携帯しているはずのスマホで読む事はありません。新聞を何紙も購読する人も居ますが、その場合ならネットの方が経済的ですね。昔は新聞切り抜きやりました。でも、後で読み直す事も無く、忘れた頃にスクラップブックのまま捨てたような気がします。気になって、切り抜いた時点で、或る程度の事は記憶されますからね。縮刷版をコピーしてもいいですからね。

    • 私は、少なくなったがチラシを読むのが楽しみで、トイレにチラシを持参していきます。スーパーの値段見比べたり、電気屋さんの広告詠んだり、最近はカンタン葬儀のチラシも多くなりました。新聞購読者が高齢化していてイヤミなチラシだと不快ですね。

  3. 環世界(かんせかい、Umwelt)調べました。ドイツのヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念。環境世界とも訳されているようですね。すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、それを主体として行動しているという考え方で、ユクスキュル氏によれば、普遍的な時間や空間(Umgebung、「環境」)も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されているらしいと。動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされると言う。事例では、マダニというダニの一種には視覚・聴覚が存在しないが嗅覚、触覚、温度感覚がすぐれている。この生き物は森や茂みで血を吸う相手が通りかかるのを、ただジッと待ち構える。相手の接近は、哺乳動物が発する酪酸の匂いによって感知され、そして鋭敏な温度感覚によって動物の体温を感じ取り、温度の方向に身を投じる。うまく相手の体表に着地できたら手探りで毛の少ない皮膚を探り当て、生き血というごちそうにありつく。この生き物にとっての世界は見えるものでも聞こえるものでもなく、温度と匂いと触った感じでできていると言うわけで、しかし血を提供する動物は、ダニの下をそう頻繁に通りかかるわけではない。マダニは長期にわたって絶食したままエサを待ち続ける必要があり、ある研究所ではダニが18年間絶食しながら生きていたという記録があるとの事。生物の生き方はそれぞれ違う極端な例えですが、ごく最近、トコダニの繁殖が盛んで観光で大量の人の流れを利口なダニが利用して繁殖エリアを拡大して居るようですね。利口だと思って居る人間を利用するのですから視覚に頼る事無く感性だけで繁殖を続ける能力の凄さには驚きますね。人間も、今や微生物などに利用される時代ですね。

    • 環世界をよく調べましたね。ユクスキュルはエストニアの人です。私は国分巧一朗さん「暇と退屈の倫理学」の294pから始まるダニについての記述でびっくりしました。時間や空間も私たちは時計と言う時間をとりあえず、約束事として認知してますが、最近、「時間というものはない」という本も出てます。ダニやすべての生物は、それぞれの時間と空間を持っていて、最近、ネコ番組も多くなりました。動物ものも多くなりましたが、ほぼすべて人間世界の類推でコピーが作られ、ナレーションされていますが、果たしてそうかということです。彼らからしたら、彼らだけの時間(彼らといってもそれぞれ個体でまた違う)で生きていて、人間は関係ないともいえます。人間滅びてもほかの生物は関係ないですからね。人間のおかげでずいぶん絶滅させられた生き物も多いくらいです。人間って、生物から見たら相当に特異な生き物かもしれません。勝手に一神教の神を作ってみたり、新興宗教をつくって熱狂したり、ほかの生物はこんなことしません。印刷された紙幣(単なる紙)で生き死にしません。

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