人間以前(フィリップ・K・ディック)
《人間以前》(早川書房)
不思議な題名の本で、原作者が『ブレードランナー』のフィリップ・K・ディックだった。映画『ブレードランナー』は、核戦争後のアメリカで多くは火星に移住して、移住先で人間のお手伝いとして作られたレプリカントが、自分たちはいつまで生きるのだと疑問を持ち、その寿命を知るために地球に脱走してくる。彼らを捕獲するためにハリソンフォード扮する『ブレードランナー』が送り込まれ、死闘を繰り返す映画であった。
原作は『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』であったが、この『人間以前』は53pの短編で、人口膨張し過ぎて(どの都会のどの区画にも、9兆人の人間がまるで薪の山のように・・469p)、法律で『魂』がないであろう12歳以下の子供を捕獲したり、まだ出世前の胎児を堕胎させて、人口の増加を防ごうとする話だ。なぜ12歳まで『魂』はないとするのか、その基準がいい加減で、読んでいてもイライラする。怖いのは、両親がこの子は要らないと当局に連絡すれば、中絶トラックがやってきて、郡の施設に集められて、養子に欲しい別な親が現れればその夫婦に預けられ、誰もいなければ抹殺されるという仕掛けだ。それは人間観として『無力な者に対する憎悪、育つものすべてに対する憎悪か?』(477p)に収斂する。
本を読み終えると、捕獲される子供たちに『魂』があって、中絶トラック運転手や当局側に『魂』はないなということになる。ブレードランナーでもロボットであるレプリカントが人間の悲しみを持ち、人間のほうが残酷で非人間的であるような終わり方で、これは原作者ディックの哲学で、21世紀に入り、様々な発明物が人間世界を覆っているが、果たしてそれが『人間の幸福につながっているのか』という問いかけでもある。『未来世紀ブラジル』『トータルリコール』もフィリップ・K・ディック原作である。
地球の未来を暗く描くことをデストピアという。ユートピアがどこか明るく未来志向なのに反してデストピアは暗澹たる未来都市を描く。ロボットには罪はない。別に生まれたくて生まれているわけではない。人間の労働を助ける補完物、労働物として、食べなくてもいい、ウンチも出さない、反抗しない、権利意識をむき出さない、黙々と働く、賃上げの要求もしない、パワハラやセクハラもしない、浮気問題もない、幾らでも電気を食べて残業をしてくれる。これほど経営者にとって万能の機械もない。しかし、大事な大事な何かが欠けている気がするのは筆者だけだろうか?『生』や『自然』を感じないのだ。
考えない人。
我が娘が勤める金属加工の会社では、今は引退した会長時代に給与の安い中国人の青年たちを雇い、郊外にある会社敷地内にある男子寮で生活をさせて残業もして働かせていたのです。彼らにとって、それが良かったのか?悪かったのかは別ですが、そのような工場労働者が沢山いたのです。ところが、息子の代になった途端に一変。近代的なコンピュータを駆使した工作機械を大量に設置し、オペレーションの若者が少しいるだけ。しかも昼夜を問わず稼働。残業代も社員の苦情も無くなって電気だけで黙々働く工員のいない工場に変貌。NHKやら民法やら、全国の同業者らの工場視察や取材迄増えていると言うのです。この場合、未だ僅かながら人間が機械をコントロールしている段階ですが、AI技術の発達も手伝ったりして、その内に逆転するかも知れませんね。機械が命令を下し、人間がその通りに従う時代が来るのでは?いや?もう、ある部分では、その段階に入って居るのでしょう。考えて見れば身の回りの電化製品や車やあらゆる機械においても研究や開発や製作に携わった一握りの技術者以外、誰もメカニズムなど理解せずに当たり前のように使って居る?使わされて居る事自体が既に機械にコントロールされているとも言えますね。ロボットに限らず、言葉を発する機械となれば尚更、機械に支配されているとも言えますね。そして今現在、そんな動きが現実になって居ますね。『人間は考える葦である』とか、『考える人』の彫像も前世紀の遺物になりそうですね。
アドマン。
昔、図書館で借りて真剣になって僅か10分間程度の通勤電車(地下鉄)内で数日掛けて読んだA.トフラー著の『第三の波』ではやがては、コンピュータの台頭で自宅勤務の時代が到来すると予測。当時は『まさか?』と半信半疑でその飛び抜けた発想に感心もしたものですが、四半世紀後の今、現に自分がその自宅勤務で仕事をしている事に気づきましたね。予測は確実に現実になると言う実証例ですね。ですから、或る意味非常に怖いですが仮想現実は近未来の現実と考えても良いかも知れませんね。そこでは今現在の知識や常識など通じない事も考えられますから、現時点での未来への評価も無意味と言えるでしょうね。現在の非常識も、時間の経過とともに、次第にその時代の常識へと変化するのでしょうね。
seto
トフラーの第三の波にそう書かれていたんですね。農業に食料づくりにAIをもっとシフトして自給率をどんどん上げていかないとこの国やばいです。餓死者でます。食料を運ぶ人も少なくなりますから、生産地の近くに住むことも推奨したいものです。首都圏で生き延びるのは相当にきつい時代に入っています。。目の前にことが出てこないと永遠にわからないところです。
坊主の孫。
時代は確実に変化して行きますから、現実とかけ離れた時代変化には抵抗すると言えば聞こえは良いのですが、残念ながら逆らってもムダとも言えますね。過去は過去、余程間違った選択は別として、時代について行くのが最も賢明な選択でしょうね。人間の寿命も限られていますから、次世代にバトンタッチした後は任せるしかありませんからね。肝心なのは次代にも役立つバトンの内容でしょうね。
seto
文明の始まりが、そもそも間違ってきたとういう人もいます。私なんか一神教が出てきたところから、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教ですね。これに鉄の発明と武器の開発が併存して殺戮が始まり、現代まで継続しているわけでたった5000年の歴史です。火薬がこれに加わりました。発明品はすべて武器に転用する癖が人間の大脳器官に埋め込まれてしまったようです。ドローンもそうSNSを利用するスマホも言葉の武器(ピストル)を1台づつもつようになってしまいました。キチガイに刃物、子供に刃物です。未熟な子供としての人類です。
seto
次世代に残せるのは、戦争には勝・負けはないということですね。恨みや復讐を再生産するだけ。これが渡せることではないでしょうか?