恵庭市立図書館に2月6日心不全で亡くなった小澤征爾さんの追悼コーナーが設けられた。司書のYさんが寄ってきて「小沢征爾さんの恩師の斎藤秀雄さんの弟さんが酪農家を目指して、この恵庭にやってきて酪農を始めた話を知っています?」「その弟さんに召集令状が来て、インパール作戦で戦死。お兄さんが弟の追悼で恵庭小学校の体育館でコンサートを開いた話です」。ユーチューブで「斎藤秀雄没後30年」というNHKのドキュユメンタリー番組を見た直後だったので「お父さんが英文学の基礎を築いた斎藤秀三郎さんで、毎日書斎に籠って勉強ばかりで、全然遊んでくれなかった」というコメントもあった。

私は「どこにそんな話が書いてあるの」聞くと、しばらくして昔の恵庭の広報誌を持ってきたのでコピーした。シリーズ●恵庭の歴史を歩く 第43回。近代酪農を目指した二人の青年

斎藤秀雄の弟武彦さんが、盛岡高等農林学校(現・岩手大学)を出て、デンマーク式の酪農経営を目指して、札幌の真駒内牧牛場で有畜農法を教えるデンマーク人ラーセンの指導を受けて、恵庭の牧場(まきば)地区に昭和2年入植した。もう一人昭和5年に漁村(イサリ)で牧場を開いた福屋茂見の生涯を書いたコラムだ。武彦と茂美は、意気投合して酪農を実践していった。恵庭酪農振興会も設立して会長に茂美、専務に武彦が就いた。酪農が軌道に乗り始めたころ、昭和12年から太平洋戦争が始まり、恵庭市の酪農家も何人も出征していった。茂美は「北海道で緒に就いたばかりの酪農を崩壊させないよう、酪農家を戦地に連れて行かないでください」と懇願したが「牛飼いのごときが何を言う!」と一蹴された。武彦にも召集令状が来て、死の行軍インパールから北ビルマに転戦。そこで鉄橋での列車事故で戦死、38歳だった。

斎藤秀雄は昭和21年3月、弟が酪農に夢を持って生きた恵庭市で追悼のコンサートを恵庭小学校体育館で開いたのである。その様子は中丸美絵著「嬉遊曲、鳴りやまず」で「体育館を埋めた満員の聴衆は初めて本格的な室内楽演奏を聴いた。古いオルガン、大太鼓、ハーモニカとカスタネットしか知らなかった子供たちは、はじめてチェロ、ヴァイオリン、ヴィオラ、フルートの音色をじかに耳にしたのである」斎藤秀雄は涙を流しながら指揮棒を振っていたんだろうなと想像する。

同著198p199p

戦後、茂美は牧場の再建に乗り出し、福屋牧場は数々の賞を受けて、後継者の育成にも力を入れた。「牛乳は土から搾れ」と格言を残し、平成4年に亡くなった。武彦は「人間として最も正しい生活ができるのは農業しかない」と確信して恵庭に入植したのである。お兄さんの秀雄さん同様、信念の人であった。

右の軍服姿が斎藤武彦

 

  1. 農業と音楽。一見無関係のように思えても意外に身近なところに逸話が眠っているものですね。それも自分たちの住む北海道。それも札幌のすぐお隣のなじみ深い恵庭ですから驚きです。更には小澤征爾氏の恩師の斎藤氏の弟さんの追悼コンサートを恵庭で開催のお話ですから更に驚きますね。特別なコンサート会場も無いところですから、音響効果も悪かったと思いますが、小学校の体育館が会場とは。しかし、これこそ地元恵庭市民への感謝も込めたコンサートですね。何も無かった地に酪農を始め今に至って居るのと同様、クラシックコンサートとは全く縁の無かった体育館で、今まで知らなかった、本物のクラシック音楽を初めて体験した子供たちも大人になるに従って素晴らしい想い出をプレゼントして貰った事に気づく事でしょうね。そして改めて農業への感心も持つでしょうね。

    • 私も知らなかった話を図書館司書の人が教えてくれました。弟斎藤武彦さんの娘さんが看護師になられて、晩年の斎藤秀雄さんの看病をしたり、車いすを押したりしたのは良かったと思います。子どもに音楽を教えるために桐朋をつくったわけですね。「ひとりも落ちこぼれはつくらない」と宣言していました。72歳で亡くなりました。下戸のひとです。世界で活躍する数知れない音楽家を輩出し続ける基礎を気築いた斎藤秀雄。ユーチューブでたくさん見たり聞いたりできます。坂本龍一も72歳。
      音楽は世界を回りますね。恵庭で弟さんの追悼コンサートを小学校でしたのですから、身近ながらすごい話ですね。宮沢賢治のセロ弾きのゴーシュ、モデルは斎藤秀雄だと,作家は推理していました。

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