5月21日に紹介した『書物の破壊の世界史』の2回目は、ペルガモン図書館。エジプトのアレキサンドリヤ図書館は蔵書数約50万冊、大図書館(本館+別館)が炎上(紀元前48年)して破壊されたのは有名な話ではあるが、その原因には諸説あって、ローマによって焼かれた、キリスト教徒に焼かれた、イスラム教徒によって焼かれた、地震で崩壊した、国内の混乱で誰も省みなくなった、パピルス紙を使って筆者されていたから一度燃えると大炎上である。きょうはペルガモン図書館について。政治的にプトレマイオス朝エジプトと対抗して小アジア(現トルコ)にペルガモン王国があってエウメネス2世(BC197~BC159)はエジプトに対抗して図書館建設を長年にわたって実施、蔵書数20万~30万部に達した。しかし、当初、パピルス紙をエジプトから輸入していたが、敵対するエジプトはパピルスの輸出を禁じた。(現代のアメリカVS中国にも似ている)。そこで苦肉の策で発明されたのが羊皮紙であった。羊皮紙はしかも裏側にも文字が書けるから倍の文字数が収容できる。以降のヨーロッパで羊皮紙が使われた背景に、ペルガモン図書館の発明があったのである。しかし、冊数をアレキサンドリア図書館と競う余り、偽書も多くなってペルガモン生まれの医学者ガレノスは偽書をたくさん見つけている。さらに、図書館の司書たちも不都合な部分を削除していた。その図書館もローマの将軍アントニウスによって都が破壊され、蔵書がアレキサンドリアへ20万冊運ばれたという人と、破壊され瓦礫の山となったいう人もいる。きょうのブログは、手に入らなくなったパピルスの代用品として発明された羊皮紙が、後のヨーロッパの歴史を塗り替えた話でした。何が幸いするか、歴史をジャンプさせるかわからないということです。

  1. 記録媒体の最古のものは古代オリエント地方で使われた粘土板らしいですね。古代楔形文字は粘土板に記録するのに便利な文字として発明され、棒を粘土に押し付けて記録したとか。やがてエジプトで発明されたパピルスは水草の茎の表皮を剥いで伸ばし水につけて発酵させ柔らかくして、縦横に並べて圧力をかけて乾燥させ植物繊維を結合させて薄い板状にした現代の紙にも近いですね。紀元前3000年位のパピルスは軽く柔軟で巻物にして持ち運びも容易だったらしく、原料の水草がアフリカで栽培されエジプトで作られ各国に輸出されていたようですね。需要が増え紙の用途を満たせなくなり禁輸措置が採られ、パピルスのエジプトから離れた地域での入手が難しくなった為、羊皮紙が発明されたみたいですね。パピルスに比べて厚くインクの染み込みも浅かった羊皮紙は書き損じた部分を削って書き直すこともできたという利点もあったようですね。

  2. 現代の紙の直接の祖先は中国ですが、紀元前150年頃の紙が出土していて、それ以前に発明されたものと言われていますね。パピルスよりはずっとあとで、羊皮紙と似た時代に発明されていて、初期の紙は樹皮とボロ布から作ったとも、植物繊維をバラバラにして漉くという手法では無いかと。中国で紙が普及する以前には、竹を細く切ったものをつないで巻物にしていた。パピルスと同じく東洋でも当時は書物といえば巻物だったようですね。中国の紙が西洋に伝わるきっかけは、現代のキルギスにあたる地域での戦いで唐の製紙技術がイスラム世界から西欧に伝搬したらしいですね。日本に紙が伝わるのが7世紀なので、意外や西洋より少し早いようです。だいたい12世紀にイタリアやフランスで製紙工場が作られても公文書には未だ羊皮紙が使われていたようです。おそらくグーテンベルクの活版印刷が登場する15世紀あたりから、紙の需要が急速に高まり、大量生産で価格低下が起き需要も急増していったのでしょうね。時代背景からも環境の違いからもパピルスと中国紙は、それぞれ全く別々に発明されたと言う事になりますね。しかし使う目的は極めて近かったようです。なぜパピルスから中国紙にいかず、途中に羊皮紙文化が入ったか。結局ローマ帝国崩壊で物流が途絶え、微妙に使い勝手の違う羊皮紙がパピルスを駆逐し、羊の皮をなめす技術がある地域でなら作ることができる羊皮紙を工夫して使う流れになり、ついにはパピルスの製造が途絶える事になったようですね。エジプトでのパピルスの製造は続けられていたとしても高コストで国際的には影響力を保てなくなった。そして現代の樹木の繊維を使う紙がより低コストで高品質になっていったようですね。しかし、今では貴重なパピルスはエジプトの土産物として残されているらしいですね。

    • 記録媒体そのもの歴史は坊主の孫さんのとおりですね。粘土でつくった記録はアレキサンドリアの大図書館に保管されましたが、読むのが大変だったでしょうね。その点、パピルスは軽くて大量につかわれたのですがいかんせん、パピルスの生産が間に合わない。中國で紙が最初に作られたとも言われてますが、果たしてどうなのか?羊の皮が記録媒体になり、教会に保存され、それを写していましたが、考えると宗教の普及のために羊さんが肉とともに皮を剥がされたということですね。それを救ったのが紙を木材から取る方法でした。現代は何によって記録されているか?メディアは電子媒体といっていいのですが、どうも実態がわかりません。

  3. 我が故郷の福井県は武生あたりに越前手すき和紙の工房が多く存在しています。手すき和紙は大量生産の紙とは一線を画していて今も健在です。これも遠くは中国からの製紙技術の伝搬からだとは思いますが、では何故?武生なのか?と考えると少しばかり思い当たるところがあります。平安かその前当時に唐との交流が有ったのは公家か僧侶ですね。私の父方のお寺も武生にある古い寺で、父母までの代々の永代供養をお願いしています。あの街は寺町でまるで戦国時代に一気に攻め込まれないように考えられた迷路のような街づくりが今も残っていて寺の数が特別多いところです。しかも何故か?紫式部公園なるものまで存在しています。子供の頃は秋になると汽車に乗って武生の名物行事『菊人形まつり』を見に行ったものです。武生は刃物の街でもあってJR駅には刃物で作られた大きな武家人物象が飾られていました。何でも佐々木小次郎の生地とも耳にしました。刃物と言えば、あの物干し竿とも言われた長尺の背中に背負った日本刀でもうなずけます。燕返しもここであみ出されたのか?と。和紙にしても、刃物にしても、寺にしても、紫式部にしても、今も古めかしい不思議な街です。郊外の田んぼの中に古い武家屋敷を改装した料亭もありました。新幹線では越前武生駅と言うらしいですが、久しぶりに寺参りも含めて行って見たくなりました。地元にいた時は気にもしなかった事が今になって懐かしくなりました。手すき和紙の体験も刃物工房も見たいですね。

    • 初めて聞く街の名前です。タケフというのですか?タケオと読むのか調べてみます。中國の製紙技術が遣唐使などで伝わったと思えますが、ここでもヨーロッパと同じく仏教ですかね。北海道にいると奈良や平安は遠い時代で実感できませんんが、和紙の工房のある町と縁があったのですから、ぜひ再訪して1本ブログ頼みます。たくさんの写真でもあれば読み応えありますよ。ぜひお願いします。佐々木小次郎や紫式部公園となるとぜひ写真をたくさんお願いします。

  4. 紙と言えば、北海道も製紙会社が沢山ありましたね。苫小牧や釧路には大手が数社あってアイスホッケーチームや社会人野球も持って居ましたね。製紙会社が多かったのも森林地帯でパルプの生産地だったからでしょう。灌木を原料にして新聞紙や再生紙や段ボール工場まで沢山ありました。しかし、今では釧路も大手製紙工場が無くなったりしていますが、これもPCの普及でペーパーレス時代の影響なんですかね。新聞や雑誌などの紙媒体の減少も関係しているんでしょうか?役所も紙に変わってデータで記録保存の時代ですから、今や紙も、漫画や書籍での需要に絞られて来てしまった感はありますね。

    • 私の叔父も王子製紙にいました。王子林を守っていました。社有林だらけでしたから。樺太にも森がたくさんありました。苫小牧では威張ってましたね,企業城下町ではどこでもそうでしたが。紙はしかし、驚くなかれ役所ではいまだに大量にコピー用紙を含めて使われています。見ていて、減るどころか増えているのではと思います。新聞紙は確かに減ってますね。漫画は買ってる人多いようですが、無料でスマホで見ているのかな?この世界、詳しくありません。

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