一神教は被差別集団のメンタリティーが強い!
「一神教VS多神教」(朝日新書)で繰り返し出てくる岸田秀のフレーズだ。「一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)は被害者意識が非常に強い」「被差別集団の特徴は団結心が強い。近代ヨーロッパの世界征服の成功の第一はこれでしょう。」以下、彼の主要な論点をざっと書いてみます。
「アジア・アフリカ・南北アメリカなどのんびり暮らしていた多神教の部族がやられたのも部族ごとの神がいてばらばらでまとまりがなく簡単に侵略できた。被差別集団のもう一つの特徴は被害者意識と復讐欲がすごく強い。たとえばある島で白人がひとりでも殺されると全島民が皆殺しにされる。恐怖心を植え付けて自分たちを殺さなくさせるんです。被差別集団というのは、仲間のひとりがやられると、わっと集団を組んで仕返しにくるでしょう。そのようにしないと生き延びれない過去の歴史があって、身に着いているんです。」
「エジプトからモーセに引きつられて出エジプトを脱出してカナンの土地に至るまでに激しい殺戮を繰り返してきたユダヤ人。カナンでさえ先住民族を殺して土地を奪った。エジプトで差別されていた人々だ。独立をしたと思ったら今度はローマ帝国の植民地、そこにイエスが出てくる。イエスの死後、パウロが出てきて、ローマ帝国の下層階級、被差別階級に広がり、ローマ自身も国教にせざる負えなくなる。そしてアルプス以北のヨーロッパ(当時多神教だった)に無理やりキリスト教を押し付けたという構造で、マルクス主義もそういう意味では、プロレタリアートという階層を設定することで、キリスト教と親和性があるのです。無産者と貧乏人が団結するということで。」
そしてレーニン・スターリン・毛沢東はそれぞれ何千万人という人間を虐殺した。ポルポトも。マルクス主義も「宗教は阿片」と言いますが、そもそも一神教なのです。だから、セクトが生まれる。多神教にはセクトはありません。(それぞれでいいのではないだろうかと岸田さんは言う)。ムハンマドの生きた7世紀も通商の交差点にいた部族はたえず殺し合いをし、ビザンチンとペルシャの大国に挟まれて差別されていたのです。
こうしてみると一神教は、戦わないといまの自分の立ち位置を変えられない、追いつめられた状況にあったわけです。そしてやられたらやり返す復讐心が強い宗教です。復讐心は、しかし、一神教は裏付けを神という観念を基盤に(背中にから支えられて)行為するから、より残虐な(神から許されると思い込む)結果を招来するわけです。
アメリカのピューリタンもヨーロッパで差別された集団が渡っていったわけで、被害者意識・被差別意識が強いまま国を作っていきました。だから軍事力と非常な親和性があるわけで、アメリカ人一人殺されればイスラム教徒を10人殺すでしょう。太平洋戦争もそうでした。その伝統は一神教の歴史、それを信じる国民に意識されてないかもしれないが刻印されていると思うのです。しかし、これは同じ一神教とのイスラエル、イスラム教徒とて同じで、果たしてどこに現代世界最大の隘路(解決できないとたぶん人類に未来はないだろうと思う)をくぐり抜けるか。
筆写として思うのは、一神教をこの辺でそれぞれ捨ててもらわないと困りますと小さな声でアナウンスすることしかできません。
神は人間の大脳の中で作られた妄想の観念で、人は神の創造物ではないと思えば単純に一神教は捨てられると思えるが、生まれた時から洗脳されると捨てるのは容易ではない。だから宗教はなんでも幼い時から子供のときから、親は教え込む、吹き込むのが組織の延命策として肝要なこととなる。どうしたらいいんだろうか?
*中国もキリスト教会の建物の上の十字架を壊す作業を実行している。どちらも一神教(キリスト教とマルクス主義)であるゆえの破壊行為の続きだ。
坊主の孫。
宗教の選択も、信心も自由と思いたいですが、新興宗教などでの事件も多く、献金と言ってもまるで騙しや脅しとなれば問題外ですね。ご本人が気づかない内は信用しているのでしょうが、抜けようにも抜けられない心理状態へのマインドコントロールなどともなれば犯罪ですね。また宗教同士の紛争も未だに各地で勃発していて、神のお許しの元に戦うとの理由付けも、争う事の好きな者たちの都合の良いいい訳ですね。人の命を奪っても許してしま神など存在しないと思いますね。神々が実在するとしたら、きっと平和な世界を望んで居ると思いますよ。
seto
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も信じるは全く同じ神なのに。近親憎悪の世界です。