『人間誰でも、どんなことであれ、押し付けられたものを心の底から受け入れるというようなことはあり得ません』(岸田秀 一神教VS多神教 朝日文庫28p)。この後に、岸田秀はだから、これまで多神教であったアルプス以北の人たちがローマ帝国からキリスト教を押し付けられたことへの怨嗟が底流として残っていて、それが、後々の反カトリックとしての宗教改革へとつながっていると語られる。1910年の日韓併合による日本語の強制と創氏改名による民族の怨嗟が100年を経過してもなお傷は癒えず、様々な場面で噴出することにも通じる。難しいのは私たちが学ぶ形式的な歴史と実際そこに生きる人々の奥深い感情まで理解が及ぶのかどうかという視点だ。苛められた経験がある人は苛めた人間より絶対数が多いとしたら(こういう仮定が成り立つかどうか)、他者はいつまでもその感情に振り回される。順風な人生の日々を過ごしているうちは、隠れていた感情が、落ち込んだ時や、気分的に零落の感情に覆われると過去のあれこれを思い出しては『そうだ、あのときのあの事件が、あの人の一言で私の人生が変わってしまった』と思う人は多いはず。現在の暮らしや環境に大きな不満があればあるほど、苛めたと思われる人への怨嗟は強いし、何度も思い出してはその感情を反芻するものだ。フロイトが繰り返した無意識の表面化である。民族や国家を一人の人間の意識と並列で語るフロイトについて、その擬人化の手法に批判する学者は多いが、説明やわかりやすさの点を見るとよくできていると思う。これは、親の子育てについても上司の部下への叱責や夫の妻への価値観の押し付け(私はああだこうだ)や妻の夫への同じく押し付け(いまは男も掃除・洗濯・料理をしないと嫁なんて来ないよ)も考えてみると、一見、正しいように見えて、実は、そのときは従ってはいるものの『心の底から受け入れているのではありません』。フロイトの遺作『モーセと一神教』。この本は、モーセはもともとエジプト人で出エジプトをしてユダヤの民を連れていくが、途中でユダヤの民にモーセは殺されると書いている。エジプト人であったので、喋る言葉が不自由で(そのため10戒という文字板が必要だった)、我々を何年も何年もたらいまわしにしてとんでもないということで当のユダヤ人に殺される。ユダヤ教の元祖モーセが実はユダヤ人に殺されるとフロイトは書いたから、同胞から轟々の非難や無視が出てきた。『人間は誰でも、どんなことであれ、押し付けられたものを心の底から受け入れるようなことはあり得ません』。心理的な現象は古代も現代も社会のあちこちで脈々と続いている。

  1. 押し付けられた事には誰でも反発するのでしょうし、または受け入れた振りをしたとしても、心の中ではヤル気も起きないでしょうね。それに反して自主的に始めた事や、好きな事に対しては積極的に取り組むでしょうし、また成果も上がるでしょうね。本来、人間は自由で、誰からも束縛されない事が望ましいのでしょうが、何かのグループに所属していれば、何らかの目的の為にやむなく従わなければならない状況下に置かれたりもしますから、そこは場合に応じて臨機応変に判断するしかありませんね。例えば、所属グループが国から命令の軍隊だったり、または宗教だったり、企業の組織だったり、従うしかない状況に追い込まれる場合も有るでしょうね。しかし、少なくても現代においては、新興宗教や巧妙なネット詐欺などによる被害など特殊なケースに巻き込まれてしまった場合を除き、自分自身の意思決定が自由に出来る時代ですね。

    • 自分では自由だと思っていてもいつのまにか、ある観念やイデオロギーに染まってることもあるので注意です。誰もが使う日本語には特に注意で、ほんとうに自分の意思で考えられたのかどうか何度も点検したいですね。毎日、シャワーのように流れるニュースに思い込みや偏見が混じってる可能性大です。自分でも自信ありません。世界で起きる事件が直接、自分の暮らしや生き方に反映されるわけですからね。

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