選ぶのは捨てること。宗教のこと。
選ばないと前へ進めない。しかし、選ぶことはほかの可能性を捨てること。政治は税金の配分の問題だから、Aに使うとBを削ることになる。結婚にしても日本は重婚は認めていないから、男にしてみれば、ひとりの人と結婚するということは、あらゆるほかの女性とつながる可能性を捨てることでもある。これでは浮気はなくならない(?)。数億個の精子のうち卵子に入れるのはたった1個。残りは廃棄処分、残酷だ。受精の背後に限りない、精子の大量死がある。男には無駄が多い。男はばらまく性かもしれない。
就職先もひとつを選んだらほかの会社は選べず捨てることになる。進学もそうで、世の中で人事(ひとごと)に関することは、この選択と排除の繰り返しにみえる。空気のようにこれを毎日毎日繰り返している。友人との約束も筆者は多いが、ダブルブッキングもたまにある。より重要なまた楽しい時間を過ごせる人、お金を奢らなくてもいい人が優先で選択をしている気がする。どうも人間の私は人間の器が小さい。
しかし、これはある程度、年齢を経てから行われるので、人間はどの家で生まれ、どんな親の元で、どんな民族で、肌の色で、豊かな家か貧しいかは選べない。絶対的に選べない。親やその前の先祖たちから引き継いだDNAも選べない。選んだ行為があるなら「それは選んだお前が良かった、悪かった」と言えるが、本人が選ぶ前にすでに「社会の中である位置で、偏見多いところで」選ばれて生まれることも多いから、本人の責任の全く無いところで苦しんだり、得をして生きていくことになる。
100メートルの徒競走をするときに、ある人は50メートル地点からゴールを目指すような不平等な競争社会になっていることだ。別にこれはいまに始まったことではなくて、太古の昔からあることだ。しかし、それを公平にするためにいろいろな部族は工夫をしてきた。一番大事な食料の分配にしても、長老たちがルールを決めて、みなはそれに従った。
現代はこの食料が実は「金」に変貌している。人間の胃袋の容量には限度があり、ローマ時代の有閑階級なら寝そべって食べては吐きながらまた食べるだろうけど。しかし、ローマ時代はご存知のように農奴や剣闘士、まだ市民にはなれない人々がたくさんいた。貧しい日常を送っていた。すがりついたのが、当時の新興宗教キリスト教であった。
もともと多神教のローマであったが(ローマ神話に出てくるたくさんの神)、一神教を信じて殉教を辞さないキリスト教徒やユダヤ教徒を見てマルクスアウレリウスは「気味悪い人たちだ」と語っていた。筆者が言いたいのは、一神教は選ぶと100%、ほかの宗教には寛容には実はなれないということ。しかも、選択の余地無く生まれたら本人の意思さえない状況で赤子のうちから、●●●教徒として生きさせることの残酷さだ。善意として昔からの習慣としてしているだけだと親たちは言うだろうけど。皇室に生まれるのだって辛いと思うね。やれ男を産めだの寝室までたくさんの人に覗かれる辛さはないね。精神的におかしくなりますよ。
そうやって宗徒を増やす、権威づける宗教ばかり、新興宗教を含めて、大事な生存のスタートにある子供への精神的な暴力を人類は2000年(イスラム教徒は1400年間)してきていないかということ。一度、幼少期に植え付けられた価値観や思い込みは取りにくいから、せめて15歳くらいになって、宗教を選択するならより寛容度の高い世界になるだろうと思う。
親は自分の信じる宗教を子供に押し付ける、私の知っている子供も逃げ回って苦しんでいた。罪深いことである。あと信者を増やす活動をしない。宗教の経済的な基盤を弱くしないと、不安な社会であるから、繁茂するだけだ。弱い人間の弱点をえさに近寄ってくる「他人の不幸を」食べている人たちを警戒したい。マスコミが宗教になってる感もあるが・・・・。
坊主の孫。
宗教問題に限らず、批判は必ずその反対意見が正論だとする訳で、反対側から言えばその逆になる場合も無きにしも非ずでしょうね。全てがそうだとは言い切れませんが、宗教同士の関係が起因した争い事は長い歴史の中で何時まで経っても平行線で解決の兆しも中々見えませんね。宗教に限らず主義主張が異なれば争いの原因にも成り兼ねず、国対国の大戦にまで発展しますからね。言葉や文書は、幸せにもなり、また反感を買う事もありますから、お互いを十分理解しあう事でしょうね。
seto
ユダヤもキリストもマホメットも同じ神を信じているわけですからね。批判っていっても同じ神を確認すれば終わる単純な話ですよ。大きな組織や関係者、宗教で飯を食う人たち「官僚トインテリの発生、文字を読める人読めない人の区別が発生)が自分の利益を固守するために様々な決まり事、聖書の改ざんやコーランの改ざんもあるかもしれず、教祖は書き物残していませんから。彼らは「何も捨てなくていいよ、隣の人を大事にしなさい」と言ってるだけかも。
アドマン。
大量消費時代もそろそろ終わりに成ろうとしていて、今や捨てる時代ですね。省いたり捨てたりするには意外に勇気と決断が要るものですね。先日も、未使用の折りたたみ自転車をリサイクルショップに持ち込みました。2年前に3~4万円でネット購入したのですが、車のトランクに積んで自転車公園でテストすると意外に操作も面倒で普通の自転車に比べて不安定だと思い、処分する事にしました。便利だと思って手に入れたのですがネットでの購入判断は写真だけですから、やはり買い物は現物を手に取って選ぶべきですね。見積は何と(?)たったの5,500円でしたが、思い切って処分してしまいました。その後の値付けは一体いくらなのかな?などと名残惜しい自分に(もう自分の手を離れたモノに未練は無し)と言い聞かせた訳です。今後は特に大きな買い物についてはネット購入はやめる事に決めました。それにしてもYOUTUBEにしても興味本位のキャッチコピーで誘導しながらCMが前面に溢れ主題をぼかすフェーク手法が横行していますね。ネット広告もここまで来れば反感さえ覚え見る気がしませんね。
seto
日曜日、親戚の叔父の葬式をして日曜日焼き場へ行きました。ああ、こうやって骨になるのかと感慨でした。預金通帳や土地や全集本、彼自身のハハトーにあった思い出も消えましたね。4人だけの葬式でしたから、骨拾いできるか心配でしたが、現代の重油の熱量が高いのか、焼き上がりまで1時間30分でした。87さい。お坊さんなので誰からもお経を上げず、自宅の部屋から焼き場へ。シンプルでした。お悔やみ欄にはどこにも載せずおまいりには来ないよう配慮しました。葬儀会社をネットで探して「小さな葬式」を選び、フリーダイオイヤル(大阪・24時間対抗)金額229990円(税込み)3日間。パンフレットを請求して自分たちの葬儀も考えました。死ぬのも大変です。自分の肉体を捨てる日が来ます。
昔の少年。
物を欲しいと思わなくなったのは歳のせい?でしょうか。持って居ても役に立たないだろうとか、必要ないとか、判断する様になりましたね。若い頃は、兎に角何でも欲しいと欲張りでしたね。高価なカメラやレンズや機材もプロ裸足に揃えてローンで200万も使ったでしょうか?。それもデジタル時代に入って直ぐに中古カメラ専門店に売りに行くとたったの21万円でした。お金は、そのまま妻にあげました。あれだけ熱中した写真もデジタルで急に興味が無くなりました。手放さずに今売れば相当高価買取額が期待で来たようですが、思い立ったら即実行して、その直後からケロリと忘れる自分にも驚きです。手当たり次第に欲しいものを飼ったり、何時までもモノに固執したりする自分も、手放す、捨てる、買わない、の三つをようやく実践できるようになりました。
seto
魅力的なものがなくなったんでしょうね。魅力的な人と会話がお土産ですよ。昨日は38歳の女性と知り合いの弁護士、歯科医との短い会話。そのすべてが宝物のようでした。会話ほどイキイキさせるものはありません。大邸宅に住んでも、楽しい会話亡き家は幽霊邸宅です。笑い声が聞こえる家が贅沢な家ですよ。
ゴミ当番。
今週は我が家のゴミ当番。と言っても折りたたんである籠を組み立てるだけですが、何と籠の蓋部分に何かが張りつけられている事に気づきました。良く見るとA4判のやや少小さい紙にパソコンで作ったであろうプリントが透明クリアファイル状のモノに挟まれ周囲をビニールテープで密閉して貼り付けた警告文でした。我が家の一つ前の当番の人なのか?それとも、その前の人か?。その内容はこうだ.。眉毛が吊り上がり怒った顔の額には血管が浮き出たイラストに●ルールを守れ。●部外者は入れるな。●違反ゴミは持ち帰れ。迷惑行為 不法占拠 と印字されている。感じたのは町内会の責任者が掲示したとは思えない事と、高飛車な物言いが不愉快になった。違反ゴミは確かに毎週見かけるが、捨てた本人も間違ったであろうから、残されて居れば気づくはずで、それが大人か子供か?は分かりませんが公共の場にふさわしくない文言は、むしろ張り付けたその人の人格を疑いますね。今朝も昨日の朝も、違反ゴミを出した事のない自分までもが朝から不愉快になった次第です。言葉は人格。行動は品格。作り直して貼り直したい気分です。が、それとも?これは?誰の仕業でしょうか?とでも。それも嫌味ですね。夜のうちに黙って剥がしましょう。
seto
私は二人暮らしなのでゴミは多くはありません。私自身が大きな粗大ゴミです。机の上は映画「学校」「秋刀魚の味」、噂の真相のバックナンバーで散らかってます。先週金曜から葬儀準備で疲れました、月曜は札幌へ。きょうはボランティあ。木曜は車の車検、金曜は札幌から知り合いの弁護士が来て遺産についてレクチャ(複雑な家系)、聞きたくないので私は帰宅。たくさんあればお金も捨てる必要ありますよ。お金は、実は社会のもの・・・という考え方もあります。天下をまわります。焼かれた骨を見てるとつくづくそう思います。・