1993年の北洋銀行頭取の武井正直講演録に、三井物産の造船部として1917年発足した三井造船が、創業75年を迎えて「自分の企業がなくなったらどうなるか」を話題にした話がある。「バカな大将、敵より怖い」の(北海道新聞社)154pより。

自分の会社がなくなったら、競争会社が喜ぶ、製品は他社から買える、騒音がなくなり周りの人が喜ぶ。なくなったほうがいいんじゃないかということになった。それでは困るので、三井造船は企業理念をもう一度考えることにしたという。笑えない話だ。

これを応用すれば、現在の自分の所属する(経営する)企業がなくなれば、どうなるかを考えるとほとんど無くなってもいいというレベルになると思う。携帯電話会社にしても電力会社にしても広告代理店にしろ新聞社やテレビ局にしても車メーカーにしてもホテルにしても銀行にしても国会議員にしても官僚たちや自治体の職員にしても。謙虚に考えれば「別になくなっても競争会社を喜ばせ(自分が立候補しなければ他候補が当選する)、他社から製品買えて(他局を視聴・他新聞読めて)、電力や紙の節約になり、自然から喜ばれて無くなったほうがいいんじゃないか。最近の話題に乗ると別にあのタレントを使わなくても他にたくさんいる。」と、そういう言い方も可能だ。で、現実にそうなる。

ここで大事なのは、自分の会社をたえず外からの視線に曝す、社会から自分の企業を見る視点だ。これを失ってしまうとまったく通用しない化石(化石だけの研究価値はあるけど)になる。自分の仕事や企業の必要性は、外からやってくる。ということは不必要性も外からやってくるということだ。

長く・あっという間に終わったサラリーマ生活をしてきてしみじみそう思う。北洋銀行が旧北海道拓殖銀行の破たんに伴い、事業を引き継いだわけで、あの時代まで「たくぎん」社員は威張っていた(と言う道民が多い)。プライドは高い、しかし他の都銀からみて劣等感ぬぐえず、それがさらなるプライドを豊かでもない道民に与え続けて、実は「たくぎん」嫌いが相当数いた。悲しい現実だ。

実際に潰れる前に、そういう世間の声が社員や経営者・株主に届いていたら変わっていたかもしれない。帝国データバンクのデータを読んでいた武井さんが面白い記事を発見した。「企業には倒産はつきものである。だが倒産しても立ち直る企業と、そのまま駄目になってしまう企業がある。立ち直る企業は、どんなに行き詰まっても誠意をもって公平に、整然と整理をし、駄目になる企業は不正をしたり、姿をくらましたりする」と。同書107pより。

現在のフジテレビの未来を考えると暗い。

自分が所属する企業が、失敗しても立ち直るチャンスの多い企業かどうか、もう一度,この機会に通勤電車の中で考えてみるのも、未来へ向かう自分の冷静な目を養うことになると思うのである。しかし、無くなってはならないのが自分の家族だ。自分自身だ。

  1. 北洋銀行の広告関連の殆どをやっていた頃が懐かしいですね。そうそう、北洋相互銀行から北洋銀行に社名も変わりましたが、大通の本店ビルの業務部には毎日のように出入りして居ました。当時流行った小さな貯金箱の制作の想い出では冬季五輪前には各競技をイメージした洋ちゃん貯金箱の原案を描き提案。スケートやスキージャンプやアイスホッケーなど決まった原画を神戸に送り、出来た蝋型を銀行でチェック後再度神戸で樹脂成型し着色見本を提出後大量に作りました。またボーナス時期には必ず各店舗のウインドウに掲出するB1判ポスターのデザインから印刷まで請け負いました。そんな頃、TV塔前のビルにあった我が社のオフイスに拓銀の若手営業マンが現れました。高慢な態度で「拓銀との取引が無いなんて?」と馬鹿にした態度で驚きました。「拓銀さんとお取引させていただきたいのは山々なのですが、わが社は本社は三和、支社は北洋さんなんです」。「窓口を増やせばいいじゃないですか?」。「実は弊社は北洋さんの広告関連のお仕事を沢山いただいている大切なお取引先なので、これ以上増やす事も出来ませんので申し訳ございませんが」と。彼はぷりぷり顔で荒っぽくドアを閉めて帰って行きました。あのプライドは一体どこから出たのでしょうね。そんな時を同じくして拓銀の融資先の焦げ付きの噂も聞こえてきていました。と同時に、お得意先の北洋銀行の業務部から電話が「新しい頭取になるのでキャメラマン同行で写真撮影に会議室に来て欲しい」と。聞くと何でも?日銀から出向だと(日銀からは初代)?不思議に思いながら、北洋もいよいよ国の管理下にでも置かれるほどに苦しいのか?などとの憶測をしながら撮影したものです。その時の有名なキャメラマンの右腕の助手が後の私の親友になった男です。暫くしてやがて大変な事件が起きたのでした。正にカエルが蛇を呑み込む大事件でした。あのお得意先の弱小の筈の北洋銀行が、あれほど道内で幅を利かせていた拓銀を人員と店舗すべてを吸収したのです。その時、初めて頭取が日銀から派遣されて来た理由が分かりました。そして大通りのビルの我が支社の窓から拓銀の大看板が壊されてゆくのをこの目で見る事になったのです。しかしそれだけで済まない事件が勃発しました。肝心の我が携帯に新聞社から怪電話が「お宅の本社で何かありましたか?」「いや?別に?本社に確かめます」つまり、日本最古の広告会社も109年目にしての倒産劇の始まりでした。社員の殆どは寝耳に水、それどころか腐りきった労組の幹部たちは会合と称する宴会の最中だったようです。知っていたのは裁判所の提出書類に判子を押した7名の役員のみ。しかし、その兆候は古い体質と会社を喰い物にしていた上層部たちの行動に既に現れていました。私も支店代表で大阪に呼ばれた際に本社内の同僚達と常務から歓待を受け、北新地のクラブを6~7軒もハシゴに付き合わされました。そのド派手な行動も後になれば疑問に思いましたが、その頃から上層部は感じていたのに違いありません。北洋銀行と同じく、わが社にもMBS(毎日系)から専務と常務が揃ってトップになりました。この時点で、感の良い人なら「会社整理に着手か?」と思うのでしょうが、薄々変だな?程度でした。その前に、道内大手広告代理店の倒産も有り、契約社員として我が支社も2名引き受けて暫くの後の出来事でした。呑気な女子社員は有給休暇を利用してパリへケーキを食べに行くような会社でしたが「どんな会社も何時無くなるか分からないし、その時労働組合員だからと言って組合が守ってくれるとは限らないからね」と支社の社員たちには言っていたのですが、全くその通りになりましたね。私の最後の仕事はお得意さんの北洋銀行の業務部に伺って事情説明とお詫びの最後の挨拶でしたが、昨日まで笑顔だった課長や調査役もソッポを向かれた苦い想い出でですね。預金口座も素早く凍結。銀行の情報の速さと手際の良さには驚きますね。本題の会社が無くなって困るのは一般社員だけで、むしろそのお蔭で反対に大儲けする会社も現実に有る訳です。同じ社員でもプロで有れば転職と言う新たな生き方も有りますから、サラリーマンは気楽な稼業とは言うモノの技量を磨く学校だと思って居ればどんな場合にも対応出来ると思いますね。長くなりましたが、大きな会社も小さな会社も大変な時代ですね。

    • 技量を磨く学校が社会ですね、そのとおりです。看板とバッジだけで生きて、自分の裸の技量を備えていないとみじめな最後になりそうな世の中です。たくぎん営業マンが突然やってきて、不快な印象を残した出来事があったようですが、それは全道の各地で起きていたことでもあります。自治体の収入や支出を管理する銀行でもあって、どこか殿様であったのでしょう。大学時代、法学部の連中は「たくぎん」は選択しませんでしたね。損保や大手の都銀、生保・電気メーカーへ就職してました。経済学部の人間がたくぎんへ就職してました。ここから差別も始まっていました。都銀の中でも最下位もあって、江戸の仇を長崎ではないですが、地元の人間の中で威張っていたのではないでしょうか?必ずバッジをつけていましたね。札幌市の人間も道庁の人間をどこか下に見ていますし、待遇面で優遇され,転勤も市内だけですからね。道庁職員ははがゆい思いをしていましたね。退職金や年金も札幌市が高い。違うのですね。道内の田舎から出てきて法学部を出て札幌市に就職すると、スゴロクのあがりになった気分の同級生もいました。たえず受験戦争の延長で役所にいて、そこで出世を競う、市民から見て有益な市政を考えるのは二の次です。「あいつはまた課長試験を落ちた」と言ってました。一般市民からみたらどうでもいいことですが、、テレビ局内でも、新聞社内でも各官庁でも似たような現象が渦巻いているわけです。

  2. 言い忘れましたが、28年間勤務の我が社が北洋銀行の仕事ができなくなったのとは反対に、何と潰された拓銀の広告関連を一手に引き受けていた広告会社は幸運にも北洋銀行側からオファーが有り、一手に扱う事になったのです。「災い転じて福となる」とは此の事ですね。理由は潰されたとは言え、拓銀の事情を知り尽くしていたからですね。また潰されたとは言え北洋銀行よりも店舗数も遥かに多かった拓銀ですから当然と言えば当然でしょうね。また会社名が無くなった拓銀の社員たちですが、仕事ができるからなのか、新しい北洋銀行の中でもそれなりのポストを与えられ活躍しているようです。会社が無くなっても困らなかった社員事例ですね。現に妻の知り合い女性も元拓銀で今や北洋の課長クラスで活躍しているようです。

    • 朝日広告社ですね。たくぎんのマークを本社がプレゼで採用された会社です。銀行の看板の仕事を専門にしていて儲けていた人も知っています。もと拓銀マンの行く末は様々。ホテルの社長をしている人もいます。70歳を過ぎても役員待遇で民間企業で勤める人とお喋りすることもありますね。私の兄も妻も妹も金融勤めでしたから、給与は高かったが楽しそうな仕事には見えないでしたね。女性は短大卒が多かったですよ。たくぎんマンさんは、賢そうに喋る癖がありましたね。プチインテリぶるところですね。

  3. クルマのディーラーさんでも吸収合併劇はありました。大抵はメーカー主導ですが、メーカーから社長や常務や課長クラスが双方に配属されて改革が始まり、やがて吸収合併が始まります。この場合もA社、B社の双方の社員間での摩擦が有って最初の内はギクシャクしますが、次第に一つに収まって行きます。私は双方に関わっていましたが、合併後の新社長によっては方針も変わるので非常に心配しましたが、双方に関わっていた事で救われました。これからも何処で何が起きるか分かりませんが、絶えずアンテナを張って居なければいけない時代ですね。

    • 合併は五分五分という対等合併はあり得ませんね。住友海上にいた同級生が大阪にいたころ三井との合併があり、全社の人事担当で苦しんでいました。たすき掛け人事とはいえ、必ず犠牲者が出ます。肩たたきもしてましたから、大阪で会ったとき、顔が黒くなっていました。心斎橋で初めて韓国料理をごちそうになりました。いまでも札幌に来た時は必ず居酒屋で飲む、大読書家です。好奇心旺盛さは変わりなく、いい年ヲとっています。

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