非宗教的な家庭の子のほうが他人へ優しい。
12月8日の「ニューズウィーク」(60P)だ。6か国の子どもに30枚のステッカーを渡して、次に気に入った10枚を選ばせて、そのうち何枚かを他の子どもへ上げてもいいと伝える(ステッカーの内容は書かれていない)。その結果、信仰心の薄い家庭の子どもの方が多くのステッカーを他の子どもに譲ったと。
宗教的な家庭の子は「分かち合う気持ちがかなり少なかった」(シカゴ大学研究グループ)。大部分、キリスト教徒とイスラム教徒であった。5歳~12歳の子どもたちだからよりストレートに出るのかもしれない。子供の寛容さと利他性は、宗教的ではない家庭の方が育っている。宗教の戒律や規範ではなくて、理性と合理的な判断をまずしているかもしれない。
「神が見ているから」という「物語や霊的存在(神)に頼る思考」ではない。善と悪をはっきりさせ、曖昧な領域を残さないキリスト教者の行動も、毎日の暮らしの微妙で複雑な判断の指針には弱い。イスラム教徒も(コーラン)さらに純化されていたり、ユダヤ教とも日常生活のあれこれを細かく規定している(タルムード)。
それより現代人は、哲学や思想・歴史・政治など非宗教的な要素に道徳規範を求めるようになった(筆者:どうだろうか?)信仰心篤くたくさんの慈善事業・寄付行為をする人も多い。しかし、人間の行動は無意識のうちに普段の習慣に従うものだ。なので結論は「何を信じたかより、どんな習慣を身に着けているかの方がずっと重要だ」(社会学者ジョナサン・ヒル)
以下、筆者の意見
私も2児の親として42歳、38歳の子を世の中へ送り出したが、「ある信念をもとにしつけた記憶はない」。私自身、野放しで育ってるから、貧しくもなく富もせず、小官吏の倅。戦争体験話さず、寡黙な父であった。だから無意識のうちに身に着けた習慣って何だろうと思うと、どうもわからなくなる。体育会系のノリもなく、テキトーな生き方でテキトーな人とテキトーな仕事を探して、営業を長年するうちに他人の人生の苦しみや運や不運や突然の人生の中断や倒産や自殺や自己破産やリストラに見舞われる知人・友人も多く、たいしたことはできないが、相手の話くらいは聞く人間になった。他人を裁かなくなった。(妻はそのとばっちり、ストレスを自分は受けていると主張するが)
学生時代、16世紀「宗教戦争」の本を何冊か熟読して、勉強もひとりでしてきたので、「信念」「狂気」「弾劾」「演説」「殉死」「旗を立てる」「魔女裁判」「異なる者を排斥する」「集団の熱狂」「〇〇のために命を捧げる」「〇〇はあなたをこう言っている」「貧しさは狂気を生みやすいし利用されやすい」「狂気の時代に寛容を守ることは尋常な勇気ではない」「鎧を取ればただの無力な裸」「性欲が満たされない男は狂気に赴きがち」。フロイトやE・フロムの影響もあるかも。
いまの世界でも通用する話だと思う。450年前の話だというのに。
坊主の孫。
人間、大した進歩をしていないと言う事でしょうね。ただ単に同じ事の繰り返しで生涯を終える事になるのでしょう。しかし、それぞれが自分だけは違うんだ、特別なんだ、優れているんだと差別化を主張しようとしますね。自画自賛と言う奴ですね。世の中も階級制で人にランク付けをします。どこどこの有名校卒業だとか、師とか士の付く職業だとか、議員だとか、数え上げればキリが有りません。一般社会の常識も比較的平和だから通用する事で夫々が守られている訳で、一旦有事ともなればすべてが狂います。昨日偉いと思って居た人でも逆転する事もあるでしょうね。そんな時でも変わらないのは、いつも冷静にしかも公平に見る眼を持って居る人でしょうね。宗教に熱心な人も居れば、無信仰の人も居て、善人も居れば、悪人も居る。社会は半々ですから、どちらに着くかは人次第。どちら側の選択肢も本人にとっては正しいと思うのでしょうね。そして自分自身の立場で批判したり拒否したり、エスカレートすれば争ったりもするでしょうね。正確では無いにしろ、人間は大きく分類して半々で、何が正しいかはその立場での正論になるのでしょうね。
seto
正しいか正しくないか、よくわかりませんが、善と悪もときどきわからなくなります。自分をたえず他者といろんなところで比べて一喜一憂する行為ですね。スマホはランキング天国であったり、フェイスブックも俺はここにいるぞ、こんなものを食べているぞとアナウンスする場所になっています。インスタグラムは羨まし合戦みたいなもので、広告人となっています。まさかのときにどういう行動をとるか、取れるかということがその人の本質を出すとしか思えません。3000年前とそんなに変わってないよと、立ち止まって考えるといいですね。
自我爺さん。
悪さをしたり、他人様に迷惑を掛けたりすると、親の顔が見て見たい!なんてよく言われますね。しかし、この親にしてこの子の場合もある訳で、親は全て優れている訳では有りませんね。親の遺伝子の一部は子が受け継いでいる訳ですから、その一部の遺伝子が悪さをさせるのでしょう。ですから聖人君子の親などこの世に存在しないのでは無いか?とも思いますね。自分を観ていても分かります。例えば、子供の年齢と同じ時代の自分を比べて見れば、どちらが悪いか?歴然としています。あの頃はこんな事もあんな事もして、両親をはじめ、いろんな人に迷惑を掛けた記憶が蘇ります。でも、それらが今現在に至るまでの試練だったのでしょうから、子供や孫たちへの厳し過ぎる眼や言動も考えなければいけません。子供は親の背中を見て育つとも言われますから、せいぜい見て見ぬふりをしながらもアドバイスなり模範的な部分を見せなければいけませんね。
seto
聖人君子の親はどうなのかという質問、面白いですね。遺伝子からみたDNAの伝達ですね。子供の性格で、自分自身、嫌だなと思う振る舞いが見えるとがっかりしますね。悪させず、大人しいところは、似ていて喜ばしいところです。
アドマン。
会社にも戒律はありますね。社訓とか社是とか企業理念だとか。私の長く勤めた会社の様に、もし創始者がクリスチャンであったなら、また、或る仏教の熱心な信仰者だったなら、または政治団体や軍隊に属していたとしたら、朝礼や記念式典で全員唱和です。その中に異教徒や無信仰者が居たとしてもです。つまり、私の様に必ずしも創始者精神に賛同して入社した者ばかりでは無い訳です。世の中も全く同じで夫々雑多な人達が地域やコミュニティーなどの社会の一般ルールに、それとなく従い暮らしている訳ですね。例え従いたくなくてもです。それは共同体の中で暮らす為の常識として大抵の人は自然に身につくものです。宗教については左程詳しくは無いので、多くは語れませんが、その戒律が一般社会で暮らす上で障害になるほどのものなら問題ですね。例えば或る宗教の名において、してはならないとか、食べてはいけないとか、飲んではいけないとか、付き合ってはいけないなどと、一般常識との大きなズレや明らかにおかしいと成れば暮らし方や、挙句の果てには人格まで変わる可能性さえもあるかも知れませんね。人間は動物と同じく、本来自由を求める傾向に有りますから、縛り付けて自由を奪えば、その内に大きな反動にも成り兼ねませんね。誘導や煽動や悪質詐欺、挙句の果てには闇バイト勧誘で犯罪を指示したりと、複雑な世の中になりました。今や、神も仏も居ないのか?と言いたくなりますね。
seto
キリスト教のある教義(カルバン主義)では、もう人間は生まれた時点で、この人は選ばれた善の国へ入れるか入れないか決まっているというのです。どんなに善行を積んでもダメな人はダメ、過ちを犯した人でも天国へいくこと決まっているとも言われます。大量の寄付行為をしても救われないのです。カトリックはお金に汚いので、免罪符を売って儲けていました。お金で天国への切符を買えるのでした。金だけ、俺だけ、俺の国だけ儲ければいい。。というトランプに似ています。そういう意味でシンプルな米国が出てきました。