相対的剥奪感という心理と現実
友人と雑談をしていたら、『相対的剥奪感とストレス増加と病気の発生』の話になった。筆者がはじめて聞く言葉なので調べてみた。仏教研究者まで書いていた。自分が準拠する集団(教室、団地、会社、趣味やサークル、大学、ファンクラブなど)で身近であるがゆえに目の前の人と比べて競争状態に入る心理を言うらしい。そして現代流行りの『マウントごっこ』に入る。
わかりやすいのは一流企業に勤め、どこからみても高い給与と福利厚生で恵まれた暮らしをしているのに、昼飯になれば人事話ばかりでストレスを溜めて病気を誘発したり、SNS、特にフェイスブックに多い『自慢ごっこ』で疲れてしまったり、そのストレスからうつ病や内臓疾患を併発するケースも多く、長生き社会とはいえ、健康な心理状態・生活習慣にはなっていないと分析される。
友人の語る例で面白かったのは、高価格マンションに住む住人の間で、部屋の中に入ると、沢山の書籍を壁一面にきれいに置いてある。しかし、よく見ると『他人に見せるための書籍だ』ということが判明する(本好きならすぐにわかる)。高級住宅街の部屋も、入ると北欧デザインの使わないペチカが置いてあったり、それぞれ生きてる空間・準拠する集団の中で気苦労をしながら、ときにお金を使い日々人目を気にしながら生きているストレスを『相対的剥奪感』というのかもしれない。
小学生の孫を見ていても、髪につけるおしゃれグッズに気配りしている。誰々ちゃんは何色、私もこれが欲しいと。もちろんその母親族も然りである。東京ディズニーに何回行った、大阪USJに何度行った話が話題になる。これがセレブ集団になるとハワイへ行った、ロスのユニバーサルスタジオへ行くという話になる。そういうひとつひとつの話がグサグサと胸と頭に突き刺さる状態を『相対的剥奪感』。絶対的に遠い話はどうでもいいのである。アマゾン川でカヌーを漕いできたなど。手の届かないレベルは圏外になる。身近な人の身近な具体的な出来事と物にチクチクする。新型うつ病の発症はこのあたりにあるかもしれない。
スマホについてもどの機種、『やっぱりアップルだよね』に『そうだね』と相槌。慌てて『母さん、私も新しいスマホ欲しい』とおねだり。しかし、この生き方はエンドレスである。なぜなら、自分自身、時間の経過とともに準拠集団がどんどん変わっていくからである。最後は老人ホームか介護施設である。そこでもやはり『相対的剥奪感』があるとある学者の論文にあったが、筆者は何も存命年数の少ない老人を長い間観察して、数量化するより、学者の準拠する大学の先生方や学生たちを観察したほうが世のため人のためになるような気がする。
亡き母の遺言『この社会は妬み社会、他人が羨ましがるものは持つな』。ストレスをためないマイペースな人生提案である。人は人、自分は自分。若いときからこれを貫きとおすのは並大抵ではないなともこの年齢になって思う。母はそれを実践した、大阪暮らしで宝塚に仲良し4人組で通っていた自慢を除いて。
絶対的ではなく相対的な剥奪感なので、背伸びで手が届くあたりが悩ましいところである。それを後ろ押しするのがお金なのか時間の使い方か趣味の世界に没頭して外の世界を忘れる心境になればいいのか。
坊主の孫。
何処までが、その基準かは?それぞれとしても、恵まれた人々?全てはお金と時間と置かれた環境ですね。サラリーマンで、それ相当の手当を貰い、当然ながらボーナスも貰い、福利l厚生で守られ、住宅手当や家族手当に有給休暇まで保証され、もちろん交通費も支給されて持ち家の戸建てや分譲マンションに住み、ローンを組んで大型家財やクルマを購入し、海外など家族旅行までも出来る環境の人達ばかりでは有りませんから、これが当たり前と言う基準の人と、このうちのどれか一つでも二つでも欠けた人とのギャップを感じれば、人によっては格差になるのでしょうね。贅沢な話です。他人は他人、自分は自分を守るには、同レベルの知人同士か、それに近いか?理解できる人同士のお付き合いが一番ですね。もし、高いレベルの知り合いがいたとしても個人的な話は避ければいい訳ですね。そのような自慢好きな人には『そう?前にも何度か聞いたけど、凄いね~羨ましいわ』とでも言って、サラッと流せば相手も、それ以上自慢話を言わなくなるでしょうね。自慢とは「自己満足」ですから、本人は気分が良いのでしょうが、聞かされる者にとっては嫌ですね。会話のキャッチボールはあくまで楽しかったり、タメになったり、ジョークが通じたりとお互い納得できる範中が最高ですね。格差社会は現実ですから、似た者同士が一番ですね。
seto
とにかく、最近のネットはランキングばかりの記事が多いです。あらゆることに競争を煽るばかりです。SNSも自慢が多い反面。妬む記事。すべて比べる心の持ち方から発生します。いま、これでいいのだよと思えば何のことはないが、消費社会にはそれでは不適応。気づかないのは、自分が誰かからみたら、羨ましいと思われているかもしれません。道営団地(家賃1万④千)円から、恵み野団地で戸建て(中古)を持てただけ幸せと言ってくれます。これだけで雨漏り住宅でしたがOKです。あとはどうやって死を迎えるか、話し合っています。直葬の場合、誰と誰にしか伝えないとか。生きてるだけで儲けものですから。そう思うと悩みはグーンと減りましよ。
アドマン。
本社会議を思い出しました。本社はもちろん全国各地の支社長が大阪本部の会議室に会して報告と今後の予定や計画の発表です。転職先のもう一社では東京本部が手狭のため、丸の内の商工会議所の大ホールに全国から招集されで各本支店の発表です。各地から事前に送っていたパワーポイントのデータを本部でつなぎ、分刻みで次々と発表です。データにも慣れた東京の連中はアニメーション機能まで使ってカッコよく仕上げていました。いずれも自慢比べ会議でしたね。私は少し小さくなりながらも、ジョークを交えて笑いを取って受けましたが、発表内容は自慢できるものでも無く新規獲得など大手柄話も有りませんでしたから、売上のある支店長達からかなり冷たい視線を感じたものです。勿論社長はじめ役員なども同席ですから冷や汗ものでした。これも『相対的剥奪感』とか言う奴ですかね。
seto
相対的剥奪感かもしれません。比較と煽りの世界ですね、営業中心の会社はね。先日、宝塚市に250億円寄附した人がいました。光が見えました、この人の存在に。お金の使い道は難しい。私は貧乏ですが、貧乏ありがたいと思いますね。日常暮らせるお金あればそれでいいだけですから。二人の子供たちも病気から立ち直り、豊かに旭川と大分県で暮らしている話を聞くと、何かあればこの家を売り、財産わけすればと大事な書類の置かれた場所を二人に教えています。暗証番号もね。貧乏長屋そだちっですか、豊かに育った、恵まれた育ちだという認識しかない不思議な人生です。欲しいものがたいしてない、欠乏感の少ない人生でここまできています。