ホモサピエンスが誕生して250万年、アフリカ大陸からユーラシア大陸へ移動して200万年。電気が発明されるまで200年も経過していない。当時は、夜は明かりは月や焚き木であり、その部分を除けば『漆黒の闇』である。

私は学生時代に、山の測量のアルバイトをしていた。旅館で1か月暮らして、朝の5時には腰にナタを下げて、熊除けの爆竹を持ち、ヘルメットをかぶり、旅館の女将から昼ご飯をもらい、水を背負い、毎日山の中に入った。林野庁の外郭団でアルバイトをしていた。山中で迷わないよう派手なビニールテープを10メートル置きに枝に結びながら歩くのである。一度、斜面から転落したこともあるが、幸いヘルメットに助けられた。林道の選定コースをあらかじめ決める測量補助である。

しかし、山の天気は激変することも多くて雨でも降れば沢の水が一気に増水、帰りに当てにしていた飛び石が水の中で見えない、大いに危険であるから先輩の背中に手を載せて歩く。沢歩きをした人にはわかると思うが尾根を越えても越えても風景は変わらない。いったい自分はどこにいるか、ピンクや黒のテープがないと恐怖に襲われる。そして鳥や動物の声もする。もちろん闇が濃くなって、しばらくすると漆黒の闇が登場するわけだ。ヘルメットにカンテラや懐中時計があるうちはいいが、これがないと発狂しそうになる。

一度、いたずらで『全部、電気を消してみよう』と先輩が言うのでやってみると『星が美しかった』。この風景を私たちアルバト2名に見せたかったのである。1枚の葉をみて、すべての木の名前を全部当ててしまう人たちだった。すごい!札幌の街から出て住んだことがなかった私は、植物や花の名前に弱い。10種の花でネタが切れてしまう情けなさだ。『闇』と書いても、まだどこかに電気のなごりがする闇で、『漆黒の闇』と書くと墨汁の色が全天に広がる風景になる。電灯ひとつなく月や星だけが明るいのは救いだ。

しかし、動物の鳴き声や鳥の声、笹薮のカサコソという音が怖い。近くに熊がいるかもしれない。音に敏感になる。原始に生きた人たちは五感が現代人より何倍も優れていただろうと思う。大脳ではなく、言葉でもなく、意識でもなくて感性だ。焚き火をしながら暮らす家族を想像してみた。おじいちゃんやおばあちゃから聞いた昔話を、親は次の世代へ手渡す大切な時間だ。小さな子供は聞きながら寝てしまうかもしれないが、それもよし。

 

  1. 振り返って見れば、私も原始の暮らしと大して変わらない暮らしを体験していました。吹き抜けの高い天井、囲炉裏には鍋を吊るすカギが下がっていて鍋やヤカンを吊るしていましたし、カマドもありました。囲炉裏の火は毎朝、田舎生まれの父が起こして一日が始まるのですが、東京育ちの母にとっては家の中で灰が舞う囲炉裏を嫌って居ました。焚火を囲む囲炉裏は一家の集う家の中心でした。指定席は決められていて家長の父が薪をくべる役でした。夏場には早朝から父は出かけて、私が目覚めるころには鮎を朝食用に数匹釣って帰って来ました。朝捥ぎ野菜や果物の場合もありましたね。父の山仕事の帰りにはアケビやニカゴなどの木の実や自然薯などを土産に持って帰って来ました。田畑を耕し、灌木を伐り出して木炭を焼き、秋には渋柿の木に登り、柿を大量にもぎ取り、家族全員で夜なべ作業で干し柿を作って暮らしの支えにしていましたね。子供の私も微力ながら作業の手伝いをしました。山奥の炭焼き小屋で火の番のために泊まり込む時は怖かったですね。大抵の食料は米も含めて自給自足でしたが肉は買うしかありませんから、鶏を絞めたり、兎を捕まえたり、鳥を捕獲したりと、当時は殆ど自給自足の暮らしでした。住まいこそ二階建ての頑丈な古民家でしたが、それ以外は殆ど原始生活に近い暮らしでしたね。

    • 暮らす知恵が詰まった生き方ですね。囲炉裏や竈、火をおこして一日が始まるのは札幌でも同じでした。新聞やチラシを丸めて火をつけて石炭で朝ごはんと暖房を取りました。冬は壁の隙間から雪が部屋に入り、ストーブの上の水は氷でした。寒いので母が編んだ毛糸の靴下を履いて子供3人横並びで寝ていました。場所は違えど朝の光景は同じではないでしょうか?水は町内で井戸があってそこから汲んできて、自宅の甕にいれておきます。これは子供の仕事でした。札幌駅の北口でも水道は未整備だった昭和26年です。馬車も走り、大根売りも来ていました。道路にはアスファルトなくて砂利道、車も圧倒的に少ない時代でした。道路で遊べましたから。危険は馬車で、後ろにぶら下がり遊んで怪我した子供もいました。

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