『醜の歴史』(ウンベルト・エーコ)から

『薔薇の名前』や『フーコーの振り子』を書いたイタリアの言語学者・哲学者ウンベルト・エーコが『美と醜』の概念のうち、『醜の歴史』(東洋書林 8000円)。立花隆の『読書脳』に推薦されていて、私の利用する図書館で調べると所蔵庫に置かれていて、借り出して読んで(絵や彫刻の数多くの写真を見ながら)みた。
「美や醜を決定するのは、美的基準ではなく、政治的、社会的基準によることが多かった。マルクスの著作には、金(かね)の所有によって醜さが補われることを思い出させる一節がある」。とくに「肖像画」は、本人の顔立ちは当時の美の基準から言うと醜い部類に入るが、「金の力によって(権力によって)醜を補わせる。・・・自分のお金で欠点が目立たないように・・・顔立ちを美化するするのに最善が尽くされている」(経済・哲学草稿)まるで今日の美容整形の興隆を思わせる。
しかし、何が美しいかは地域や宗教によっても違うから注意したい。絶対的な美の規準はない。奈良時代から描かれた仏僧のための『九相図』(死んでから白骨になるまでの人体を九つの段階で描く絵)、平安時代の「鳥獣戯画」や室町末期から江戸にかけての「百鬼夜行」などもたくさん見て欲しかった。「醜」にユーモアが加わったかもしれない。参考とされる絵に対する解説文はえらく難解で理解不能内容が多い。
ここで、エーコは美しいの類語・イタリア語をあらん限り書く。「美しい」「可愛い」「快い」「魅力的な」「好ましい」「愛らしい」「喜ばしい」「調和した」「素晴らしい」「繊細な」「優美な」「軽やかな」「うっとりさせる」「壮麗な」「驚くべき」「魅惑的な」「類稀な」「例外的な」「童話のような」「御伽噺のような」「驚異的な」「魔法のような」「賞賛すべき」「価値ある」「華麗な」「輝かしい」「崇高な」「雄壮な」などなど。
一方、醜いの類語は「虫の好かない」「戦慄すべき」「汚らしい」「不愉快な」「怪奇な」「忌まわしい」「気味悪い」「憎憎しげな」「嫌悪を催させる」「怖い」「卑しい」「凄惨な」「恐怖を催させる」「見苦しい」「汚れた」「悪趣味な」「身の毛もよだつ」「おぞましい」「恐ろしい」「ぎょっとさせる」「恐るべき」「悪夢のような」「奇怪な」「むかつく」「反感を呼ぶ」「胸が悪くなる」「吐き気を誘う」「悪臭を放つ」「ぞっとする」「あさましい」「ぶざまな」「不快な」「うっとうしい」「不細工な」「異様な」「外観を損じた」など。
エーコは、これらの類語を見て次のような評価を下す。「美しい」の類義語はすべて私欲を離れた評価反応だと思われるのに対し、「醜い」の類義語はほとんどすべて、たとえ激しい反感、憎悪、恐怖でないにしても、不快の反応を示していることだ。不快からイライラも生まれて現代社会の精神状況を表してもいる。チャールズ・ダーウィンは「軽蔑や不快の表現とされる様々な動きは、世界の大部分で同一である」と論文「人間と動物の感情表現」で結論している。民族間の差別感情も単純だが、不快の感情から来ているとしたら、解決策はどこにある?
この本は、時代や場所を超えて、ダーウィンの結論を実証すべく「醜い」作品のオンパレードです。時代の初めて見る絵が多い。たぶん美術教科書の中で醜いゆえに掲載を避けられてきた絵画たちだ。江戸時代の絵師もそういえば、醜悪な・残酷な版画や絵をリアルに描いていたし、現代作家でもたくさん、世界中にいる。ただ1冊が8000円、2冊で16000円は高いが持っていて惜しくない。重くて寝転んでは読めない。
アドマン。
江戸時代の浮世絵などの美人画と言われる女性の顔も今ではお世辞にも美しいとは言えませんね。当時の評価基準と現代では大きく違っていたのか?それとも流行の顔立ちを意図的に流行らせたのか?。今になっては不明ですが、当時は鎖国の日本国内でしか流通しなかった浮世絵などの美人画も一時的な流行で、外国との交流で初めて美における基準も変化したのでしょうね。遠近感や陰影のグラディーションの無い日本の絵は版画によって広まった経緯から見れば版木の彫り師の技術的な難度も考慮して描かれたと考えるのが正しいのかも知れませんね。その浮世絵の表現にも表の顔とエロチシズムを追求した裏の顔(むしろこれが表かも)がありましたね。一方、一点主義の西洋の油彩絵画などは画家本人のみで完成させるものですから、他に誰の手も借りずに完成したもので、表現も日本の版画のように最後は摺師の腕に一任する事も無く、むしろ一点主義が描写の自由度をも活かされる結果になったのでしょう。画一性を求める版画による美の追求と自由な表現の中の西洋の美の追求とでは全く交わらない平行線でしたが、後期になって、ようやく西洋の画家たちの間でも日本の版画の要素を取り入れるなど、美の世界でも交流が始まり、お互いを認め合いながら切磋琢磨しあう程になりましたね。しかし世界大戦では大切な美術作品の多くが被害に遭い、画家たちも強制的に戦場の醜い情景画を描かされたりと、美術界にとって苦悩の時代もありました。あのレオナルド藤田さえも戦場の情景画を描かされていた一人ですからね。
seto
美の絶対的基準ってあるようでないですね。古代の洞穴に書かれた動物の壁画を見るといきいきーしていて大好きです。名の無い人たちが書いたり作った壺なんかもそうです。私は生活から生まれた意図的ではない美しさに惹かれます。そこには「醜」はなさそうですよ。江戸時代の浮世絵なんか、すごいとおもいます。室町の鳥獣戯画も迫力あって現代の漫画家はとても追いつきませんね。ただ、浮世絵の顔が道も好きになれません。なぜ、あんなに長い顔に書いているのでしょうか?焦点を一つにしてそこから風景や人を写す絵画は立体的で平板からのテイクオフをしましたが、ピカソなんかまた平板でありかつ立体的な複雑な手法で書いてます。戦争画を書かされた藤田さんはパリへ行きますが、複雑な心境、国家を憎む気持ちになったと思います。周りの同業からの嫉妬や戦争批判にも(文学でもありました)へ辟易したのでしょう。芸術や言葉を生業とする人たちはあっという間に権力に利用されます。いまも昔も。
坊主の孫。
今も自分自身の表情をスマホやPC、または証明写真撮影BOXなどの機能を使い、別人?かと思う位に修正できるので、写真も信用できませんね。自撮り写真なら自分の好きなように加工すれば、本人とは思えない位の美人に変身しますから、流行りのSNSなどでの自己PRに使われて居る自画像等は殆どがこれですね。つまり、自分の顔に自信が無いのに無理して別人のように美しく見せたいと言う願望の現れでしょうが、実際の本人に逢った時の落胆は計り知れないでしょうね。美も行き過ぎた整形や修正写真などと知ってしまえば落胆も大きく、性格さえ疑われ兼ねないですから、むしろ無理しないで自分らしさに磨きをかけた方が良いと思いますね。心や言葉や声や所作など、美しさは顔だけでは有りませんからね。同じ「美」でも「性格美」は誰にも好かれますね。
seto
性格美って初めて聞いた単語です。言い得て妙な表現です。仲間と居酒屋で撮影した写真ならなんとか見られrますが、若い世代と並ぶとうんざりします。娘や孫との集合写真は恥ずかしくて見られません。修正してもしょうもない顔です。これに責任を持ちましょう。ここまで生きてきた顔ですよね。遺影に使う写真を妻と私で探していますが、妻の写真はいいやつがありました。私をどうしようか迷ってます。ヒントは正面より横顔がいいかなと探していますが、実は自分の写真って面許のヤクザみたいな前科者写真しかないのです。困ってます。醜の歴史に追加する自画像かも。
匿名
絵にもいろいろで、例えば『風刺画』などでは、むしろ欠点とさえ思われて居るであろう部位の特徴を更に誇張して描きますから、一瞬吹き出しますが、見事に特徴を捉えていて、一体?誰なのか?も一目瞭然ですよね。風刺画のモデルのご本人にとっては屈辱かも知れませんが、決して嫌悪感どころか、むしろ微笑ましく愛着すら持てますね。つまりご自身では欠点だと思い込んでいる所は他から見れば特徴としてしか認識しておらず、個人を識別するには欠かせないものなんです。つまり、何の特徴も無い人よりも個性的と言う訳ですね。人物画にしても自画像にしても、せっかくの個性的な特徴を修正や補正してしまえば、むしろ見る人からは疑問さえ持たれてしまいますから、絵も写真も、表情や性格も、出来るだけありのままが一番ですね。
seto
山藤昭二さん凄いですね。顔だけではなくて性格までイラスト化しますから、すごい観察量ですね。昔の噂の真相の1ページ目もエロっぽいですがすごいです。欠陥や欠点を指摘される方が人間的ですよ。選挙のポスター写真はできるだけ美しく若々しく凛々しく笑顔でワンパターン撮影です。やめて欲しいです。嘘くさい。