筆者唯一の海外旅行『アメリカ西海岸流通業研修旅行』で、サンフランシスコで一日自由行動になり、私はアルカトラス刑務所を目指した。多くはバスでヨセミテへ行っていたが、自分の英語力を試すためもあり、ひとりで行きたかったのだが、ホテルで同室の人間と静岡から参加した2名も私の後をついてきた。脱出不可能と言われる刑務所みたさは、私が住んでいた札幌東区に苗穂刑務所があって青い囚人服を着た畑仕事をする彼らに親しみを感じてもいたせいかもしれない。港からフェリーに乗れば目と鼻の先だ。イタリア人が坂本九の『スキヤキソング』を日本人を見ると歌い出してエビ料理を売る。美味い。島に近づくと岩に白ペンキで『この島の所有はインディアンのものだ』と書いている。それはそうだ。

島に上陸すると、刑務所のガイドを日本語で案内してくれるのでヘッドフォンを借りる。『ここはアルカポネが入っていた独房です』という案内に、私は好奇心もあって入ってみたら、誰かがいたずらで独房を閉めた。激しいパニック発作が起きて『開けてくれ!』と叫んだ。独房から出てもパニック症状が治まらず、島の上の屋上に出て深呼吸をした。対岸のサンフランシスコのビル街を眺めながら、コイトビルの英語文字を見て、『これは車のランプをつくる小糸製作所のビルか?』など全然関係のない空想を巡らして、気持ちをパニックを考えないように誘導した。

この旅の初めから私はパニックと戦ってきた。成田で当時500人くらい乗れる飛行機の最後尾の真ん中の席に入るやパニック起きて『この飛行機から降ろしてくれ』と騒いだのも私だ。息が苦しくて死にそうになるのだ。周りは『あいつ、何を騒いでいるのか』とみられたが、通路側の席を譲ってくれて足を通路に投げ出して少し楽になった。ロサンゼルスまで一睡もせず、ジョニーデップ『パイレーツオブカリビアン』の封切りを何度も見ていたがストーリーは全然覚えていない。地獄のような旅であった。『のような』ではなく『地獄そのもの』であった。ユニバーサルスタジオで私はどこにも行かず、ケヴィンコスナー主演『ウォーターワールド』の横のベンチに座り爆睡をしていた。歩いていても瞼が落ちる体験を初めてした。眠くて歩けないのだ。

サンフランシスコのホテルも部屋に入ると少し息苦しいので窓を開けて外の空気を吸おうとしたら、開けるとそこはコンクリートの壁でパニックが起きて、廊下を走り、1階の天井の高いロビーに戻り、深呼吸をした。パニック発作を持ってる人ならわかると思うが、ある条件(狭い・暗いなど)で一度起きると、また発作が起きる観念に襲われて実際起きてしまう。いま思うと、飛行機の中を含めて旅そのものが『アルカトラス刑務所』ではなかったかと妄想する。海外の旅先を描いた紀行文を好きな私だが、『待てよ、彼らはそこに行くのに平気で飛行機に乗れるのか?私みたくパニックは起きないのか』と不思議に思う。

しかし、そのことを書いていた分子生物学者がいた。福岡伸一さんである。『閉所という極限』だ。(生命と記憶のパラドクス 文春文庫 69p)。ミラノから天井の低い狭い飛行機内で、雪害ため閉じ込められパニック障害を体験したことがリアルに描かれている。自分の心の動きが細密に描かれてある。

パニック障害は2023年の8月、福岡空港まで飛んだことで後退した。一人で飛行機に乗れるようになった。満員のJRにも乗れるようになったが、事故で突然停止する場合、まだパニックの余波は残っている。なので飛行機で危険なのは空の上で着陸まで旋回するときくらいだ。

  1. パニック障害と言いながら、実はパニックに成り易い所ばかり行きたがるようにも見えますが?。私はサラリーマンを辞めて出張も無くなって飛行機に乗る機会も激減して精神的には楽になりました。それまでは緊張する場面はたくさんありました。本社会議で東京や大阪に行き大ホールの会議場での支店の現状説明や実績報告をパワポで大スクリーンに投影しながらの発表は、社長や上層部全員ほか全国の各拠点責任者の視線を浴びながら言葉もごもりがちでしたが、こんな時の為に準備していたジョークを披露すると会場全体がワッと湧き、そこでようやく気持ちも落ち着いたものです。緊張しやすい性格ですから、この方法で何度か成功しています。気難しい顔の人ほど、この手のジョークに反応してくれるものです。緊張の場を和ませたり、パニックに成らないようにするには他人に頼らず、自分自身が周囲の環境を支配できるようにする事がベストかも知れませんね。

    • なるほど。戦前や戦後すぐの新聞を読むと、赤面症や上がらないためにという広告がずいぶん多く掲載されています。地方から都会に働きに来た人に多かった症状ですね。私の場合、数字の重圧、できもしないが目標とされた数字を毎月毎年,息せきって走り回っていたツケだと思いますね。趣味と言えばパチンコと書店まわりでしたね。宴会の多い企業でしたから40人50人を前に話すのは何でもないですよ。数字のノルマは仕事を離れる以外、ないです。営業は自分のもらう給与の3倍利益を出さないと存在理由ないですから。たくさんの部がありましたが、広告の営業仕事に手を挙げてくる人はいませんでした。70%が新規顧客開拓と企画を考えスポンサーへ売り込む仕事でしたから。パニック、しょうがありません。これで死ぬわけではありません。

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