命を大切にする人は 「老子(タオ)」自由訳 加島祥造
おかげさまで、きょうでブログ400本になりました。
久しぶりに加島祥造さんの自由訳「老子」から第50章「命を大切にする人は」。
人は生まれて、生き、
死んで、去ってゆく。
三十の年までは柔らかで若くて
生命(いのち)の仲間だといえる。
六十をすぎてからの三十年は
こわばって老いて
死に近づいてゆく。このふたつの三十の間の
壮年期の三十年は、まあ
しきりに動きまわって、どんどん
固いものに近づいてゆく期間だよ。
どうしてこんなサイクルになるかって?
それはね、ひとが
生きるための競争に
こだわりすぎるからだよ。
聞いたことがあるーーーー
生と死は同じサイクルのなかにある、
それを知って、
命をそっと大事にする人は
旅をしてもけっして
猛獣のいるところへは行かない。
軍隊に入れられても
武器を取る役には廻らない。
だからその人生では
虎の爪や犀のツメに出くわさないし
兇暴な人物の刃にかからない。
それというのも
生をとても大事にしているからなんだ。
自分の命を大切にしている限り
死はつけいるすきがないんだ。
零戦パイロットの弟。
親子ほどの歳の差の長男は師範学校を中退してまで自ら志願して両親にも告げずに勝手に霞ケ浦の予科練に。一方、父親は商売替えして母の兄弟が経営する下町の軍需工場で潜水艦の冷却装置製造に携わって戦争を逃れました。当時の社会状況から見れば兄は立派で、父親は臆病者と。しかし軍需工場が救いでお国の為に必要な人間と言う事にも解釈された訳ですね。兄も航空隊で空母に所属して訓練は厳しかったようですが、最終的には終戦で命拾いをして復員しました。厳しい時代に偶然にも二人とも命を落とさずに人生を全うした訳ですが、その陰には多くの命の犠牲が払われた事にも間違いは有りませんね。二人とも同じ時代の中で人を一人も殺してはいない訳です。一つ間違えば兄は帰らぬ特攻に行っていた訳ですし、東京空襲の最中に父母や三人の姉たちも焼夷弾で焼死していた可能性だってあった訳です。終戦がもう少し遅れて居たら私自身も今存在して居なかったかも知れませんね。終戦後たかだか80年しか経って居ませんが、世界各地では未だに同じような人達が明日をも知れない環境下に置かれているのでしょうね。土地や命を奪い合う人間って?未だに進化の遅れた野蛮な動物に過ぎませんね。
seto
私の母は大阪空襲で初恋の海軍軍人と別れて,北海道に帰り父親とお見合い・結婚して私たちが生まれました。死ぬまで造幣局のまわりの夜桜のデートの話をしていました。父親は辛かったと思いますね。よき思い出を繰り返すことで89歳の人生を生き延びて来たのではと思うことがあります。父親にしても満州から生きて帰ってこれたわけで、たくさんの捨てられた子供たちも見たと母親に話していたそうです。岸信介が危なくなると飛行機で自分たちだけ帰国したわけで、あいつは絞首刑だと言ってました。80年経過しようと戦争の傷は消えませんし、偶然に生きている私だとも思います。進化より退歩している哺乳動物に見えるときが現代人に見えます。